×

連載・特集

「がんす横丁」シリーズ がんす横丁 (四十八)中の棚橋界隈(かいわい)㊦

文・薄田太郎 え・福井芳郎

 筆を再び胡町に戻す。十日市町から胡町に盛り場を移した歌舞伎清七のことであるが、彼女を広島の生れと書いたが、実は高田郡吉田の生れであったので、その次第を訂正する。彼女は福島正則に引き立てられて、慶長八(一六〇三)年、胡町の「市の町」に住んで歌舞伎を公開した。正則自身、彼女の劇を見物に出かけたとのことだ。これが広島での歌舞伎のはじまりで、お国歌舞伎同様、いまから三百五十年前の話である。

 東魚屋町を左に曲って、平田屋町への路(みち)は立町である。楯町と書かれた時代もあり、本通りの横町に対する縦町とも言われて、現在の町は竪(たて)の字の上半を略して立町にしたとも言われる。ヒロシマの七つの流れに添うて、南北を縦とし東西を横にして、それぞれ立町と横町という名の町をこしらえている。

 立町の旧商家には紀州生れの金具屋藤三郎があり、細工造花業には丹波屋岡田彦九郎の名も見られる。また同じ丹波屋が八百屋商を営んでいたために、東魚屋町から西に延びた通りを八百屋町ともいわれ、明治十年の広島細見縮図にもその町名が載せられている。

 明治、大正にかけて広島人によく知られた外科の難波病院も立町にあり、同じ軒を連ねて五色羊かんの発売元さくら屋もあり、また帽子屋数軒が並んでいたのも、この町の特チョウであった。

 崇徳教社も一種の公会堂的役目を果して講演会場に当てられたことも度々で、昭和三年であったか、改造社が現代日本文学全集を発刊して円本時代のスタートを切った時、その文芸講演会を開いたのも、この崇徳教社だった。

 高台で若かりし日の新居格氏や木村毅氏などが文学論をやったことも思い出される。また、この教社のなかに本格的な能舞台がつくられて、各流の能楽が公開されたこともある。

 子供心に覚えているのは、この崇徳教社の隣には、そのころ流行の牛鍋屋があったことだ。広い二階が幾つもの衝立(ついたて)で仕切られて、すき焼鍋をつついたことを思い出す。国道筋を走っている円太郎馬車のラッパがこの座敷まで聞こえていたのは、明治四十三、四年のころであった。

 その後、この古風な二階建の家はある医院になったが、二階の手スリは昔のままの風情を永く残していた。

(2018年3月11日中国新聞セレクト掲載)

年別アーカイブ