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連載・特集

「がんす横丁」シリーズ がんす横丁 (四十九)車屋町から豆腐屋町まで(その1)㊤

文・薄田太郎 え・福井芳郎

 八百屋町の西につながった町を車屋町というが、明治十年の広島地図、十六年の広島案内記にもその町名が書かれている。しかし、現在では立町の延長である研屋(とぎや)町のうちに含まれて、八百屋町同様、消えてしまった町名となっている。

 このあたりで明治十六年の広島案内記から当時の戸数、人口を拾ってみると、戸数は二万三百九十戸、人口は七万七千四百四十一人という数字が現れて、商店数は四千二百六十軒となっている。そして面白いのはさすが酒どころというのか、酒屋が百四十九軒もあって、それに対抗したワケでもあるまいが菓子屋が三百十一軒もあって、数字の上では辛党を上回っている。

 車屋町というのは、文字どおり車をつくる家が多かったので、町名にされたのかもしれない。大八車や人力車の木製の輪が店先に立てかけてあったような街の姿が想像される。

 広島案内記には、西洋ペンキを扱うものに車屋町に柴田惣兵衛、綿繰器やポンプを扱った大黒屋伝左衛門こと梶山吉右衛門、ガラス入建具店には岩瀬荘三郎の名が見られる。柴田惣兵衛の名はその後、看板屋柴惣として、猿楽町にその店が残っていた。

 大体この界隈(かいわい)には建具屋が多くて、精巧なラン間を彫刻している専門店もあり、ここ三十年来、この旧車屋町から研屋町、紙屋町にかけて洋家具屋が軒を並べて、一時は広島洋家具の名をうたわれたもので、業界の発展のために尽した筒井、小泉、太田諸氏の力も高く買われている。

 本通りに抜ける研屋町はもともと刀研師が多く住んでいたところで、その町名が残っている。電車交差点としてその名を知られている紙屋町は、大手町通りの東通り、塩屋町にもつながった町である。伊予屋九郎右衛門が天正年間(一五七三~九二年)からこの界隈で紙屋をはじめて手広く郡部方面と取引をしたことから、紙屋町の町名が残っている。

 紙屋町交差点といえば、この三角形の地点に己斐行、広島駅行、宇品行の三電車が待機して、トタン張りの二階信号室から、ピリッと笛を吹いてサインを送ったもので、この素朴な信号室を中心とした昔の風景に、懐しい感傷を覚えるのは筆者だけではあるまい。

 面目を一新した現在の交差点風景をみるにつけ、紙屋町という古風な名前がなんとなく取り残されているようにも覚えてくる。この近代化された交差点が、ようやくに辺りの銀行ビルとマッチしたあたり、原爆がもたらした一つの所産であったとは皮肉な事象といいたい。

(2018年3月18日中国新聞セレクト掲載)

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