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連載・特集

「がんす横丁」シリーズ がんす横丁 (四十九)車屋町から豆腐屋町まで(その1)㊦

文・薄田太郎 え・福井芳郎

 立町を電車道に出る右側にはお寺があり、研屋町の銀行裏にも一つの寺が残っているが、紙屋町から西警察署へ抜ける旧横町勧商場近くにも寺があった。この寺の跡には広極(商店街)の広栄座が建てられ、当時の寺は鷹匠町の清住寺の裏に移転されて、広栄座設立由来の碑が建てられているのも、決して昔の広島を忘れない人たちの気持が、そのまま現れているようである。

 電車道に面した紙屋町の一角では、広島最初のエレベーターを設備した三階建のみかど食堂のことも忘れられない。紙屋町といえば広島案内記には、本通り角に平富屋秦忠兵衛の呉服店があり、その地点には原爆前、高橋呉服店があった。

 三階建の建物といえば、明治十五年ごろ、細工町に高さ十一間半の五階楼が出現して、広島名物となった。大ゲサめくが雲表にそびえし五階楼は、かしわ、牛肉、なべ焼で千客万来と栄えていたという。広島案内記の銅版刷にも、その高層建物があたりを払って、そのころ流行の街灯も取りつけられた風景が立派に描かれている。

 また、同じ町内には米田良平氏の経営した四階建の料理屋があり、西地方町新大橋西詰の四階建の料亭光昇楼と、そのケンを競うたとのことである。何しろ七十年前の広島の昔話である。

 ここ十年前まで猿楽町の佐伯便利社の前、商工クラブの入口にあった三階建の飲食店が、明治時代の名残りを留(とど)めていたように想(おも)う。その隣りに市会副議長をつとめた島本秀吉氏の理髪館があり、さらに隣りに油絵愛好者として知られた黒川節司氏の医院があった。いまもって原爆そう話に出てくる人である。

 同じ軒並みには高坂万兵衛氏の店があった。同氏が広島の産業界に尽した話はいろいろあるが、その一つにマッチの製造がある。同氏は明治十三年、同志三人と謀って船入町に快燧(かいすい)社という工場を建て、広島最初のマッチ製造をはじめている。

 また、清茂基氏の医院もこの近くで、その前の小路の奥にはお不動さんの西蓮寺がある。広島夏まつりの一つで、狭い境内にはのぞきからくりや見世物小屋も出来て、参詣人がやっさもっさとひしめきあった。細工町とはそのかみ、多くの細工師がこの界隈(かいわい)に住んでいたことから町名となったものである。

(2018年3月25日中国新聞セレクト掲載)

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