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連載・特集

「がんす横丁」シリーズ がんす横丁 (五十)車屋町から豆腐屋町まで(その2)㊤

文・薄田太郎 え・福井芳郎

 細工町で忘れられないのは広島郵便局である。もともと広島郵便局の前身、広島郵便取扱所は明治四年十二月、平田屋町に看板をあげたのが最初で、次いで細工町元安橋東詰の南側に移り、三度平田屋町に舞いもどったが、明治二十六年四月、更(さら)に細工町に移動して、原爆の日、明治・大正・昭和と五十年余りにわたる旧広島郵便局の歴史に終止符を打った。

 かつての繁華街の中心にデンと腰を下していたこの郵便局の外観は、創立当時そのままで、正面の大時計は極めて印象的であった。その円形を取りかこんだギリシャ風の屋根のカーブにも、広島の年輪がうかがえたものである。

 国道に面した郵便局の裏口には、電報配達用の自転車が並べてあった。この列を縫うて威セイのよい赤塗の逓送車が数台、その後を制服を着た局員が車の後押しをして広島駅へ駆けつけたのもあのころで、現在のように郵便ポストを開けるのにも小型の自動車が使用される時代と比べて、感ガイ深いものが感ぜられる。

 また、電話は明治三十四年二月二日を期して広島郵便電信局で電話交換が始められ、三十六年四月一日より、市内通話が始められた。

 郵便局の隣にあった山瀬呉服店も、広島で古い店であったが、後には婦人子供服の正札堂、明治製菓会社の喫茶店に模様替をしたように覚えている。屋根の角にあった西洋太鼓型の看板には、朝顔の花のような電飾がつけてあったのも珍しく、山印の下にセ・リーグの「セ」の字が組み合せてあった屋号も忘れられない。

 次に道路を距てた元安橋は、長さ二十八間(約51メートル)、幅四間(約7メートル)、広島きっての名橋である。昔は「元康橋」と書かれたもので、これは毛利時代、元就の八男毛利元康の名に因(ちな)んで名付けられた橋と言い伝えられている。元康の屋敷は基町の旧陸軍地方幼年学校のあたりにあったので、この屋敷から細工町を通り、この橋までの道路は「元康通り」と言われた。

 承応(1652~55年)ころの広島城下地図には「元康橋」と書いてあるが、享保(1716~36年)ころの絵図には「元安橋」と書かれていた。この「康」が「安」に改められたのは承応から享保までの間であろうと、広島市史にもその次第が書き留めてある。

 明治末期の元安橋は、広島最初の盛り場、中島本町界隈(かいわい)発展に大きな役割を果した橋で、橋の北側の欄干近く、広告灯が飾られたのも懐しい思い出である。市内の各商店の屋号がそれぞれ思い思いのデザインで描かれ、その一枚一枚の看板広告が一灯ずつのガス灯で照らされていた。羽田別荘の羽田謙次郎氏が発案したものと言われる。この広告灯は、今でも語り草になっている浅野氏広島入城三百年祭の時の記念品であったかも知れない。

(2018年4月1日中国新聞セレクト掲載)

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