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戦中耐えた「尊厳の芸術展」 広島県立美術館 強制収容された日系人の希望

彫刻や表札 「移民県」ゆかりの作品も

 廃材で作った飾り棚や編みかご、下水道管に線刻を施した花生け…。作者は太平洋戦争中、米国の強制収容所に隔離された日系人たちだ。逆境の中、心の潤いを求めて手作りした工芸・日用品などを集めた「尊厳の芸術展」が、広島市中区の広島県立美術館で開かれている。「移民県」と呼ばれた広島ゆかりの人々の作品を含めた約200点が、戦争の記憶と陰を物語る。(林淳一郎)

 1941年12月に開戦した太平洋戦争。翌42年から、米西海岸などに暮らす日系人約12万人が計14カ所の強制収容所に送られた。家や財産を手放し、持ち物はわずかな手荷物。荒野のバラック暮らしが3年以上続いた。

 展示品のうち、花やチョウをかたどったブローチやコサージュは愛らしく、収容所内での作品と感じさせない。女性たちが砂漠で掘り出した貝殻などで作ったという。鳥や金魚のブローチは木を削り、絵の具で彩色。端切れを縫い合わせた日本人形、桃の種をくり抜いた指輪もある。

 「一つ一つが戦争のはざまで生き抜いた人々の証し。明日の見えにくい暮らしに希望をともそうとした」と同館の宮本真希子主任学芸員は話す。

 会場には、広島から渡米した日系人男性の彫刻なども展示する。04~05年の日露戦争後の不況などで、海外へ多くの移民を送りだした広島。北米への累計移民数は明治―昭和初期、全国トップの約9万2千人に上った。

 故シゲオ・ナイトウさんは、現在の広島市安佐北区からカリフォルニア州へ渡った。今回展示されているのは、アリゾナ州の収容所で作った木彫りのライオンやだるまなど5点。砕いたガラスをやすり代わりに、硬いアイアンウッドを磨き上げた創意工夫の作品だ。広島ゆかりでは、廃材に名前を彫り収容所に掲げたという表札もある。

 このほか、バラックが立ち並ぶ収容所を描いた絵、16歳の少年が木片で作り上げたそろばんなどの日用品も並ぶ。日系人部隊として欧州戦線へ赴いた息子に贈った千人針、石にカニやカエルを彫刻したすずり、丸太を彫り込んだ仏壇は「日本への憧れ、プライドがにじむ」と宮本主任学芸員。

 ところが、これらの手作り品は戦後長く屋根裏や物置などにしまわれてきた。米政府は88年に強制収容について謝罪、補償したものの、多くの日系人は戦時の体験と記憶が「さらなる差別につながる」と、詳しく語ることはなかった。

 光が当たったのは戦後60年の2005年。祖父が現安佐北区出身のデルフィン・ヒラスナさん(カリフォルニア州)の「アート・オブ・ガマン(我慢の芸術)」と題した著書だった。自宅や友人宅で見つかった工芸・日用品は米国各地で開かれた展覧会で話題を呼んだ。日本では12年11月から東京など5カ所で開催。広島が国内最後の巡回地となる。

 同展は9月1日まで。

(2013年8月21日朝刊掲載)

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