×

ニュース

[地域の明日 2021衆院選] 黒い雨救済 「早く手帳を」思い切実

新認定基準づくり難航

 被爆者健康手帳の交付を求めるお年寄りが11日、広島市中区のビルの一室に詰め掛けた。広島への原爆投下後に降った「黒い雨」に遭ったのに被爆者と認められていない人たちの集団申請。市が用意した会場で、189人分の書類が提出された。

 「本当に認められるんでしょうか」。松尾帑(すすむ)さん(88)、美智子さん(86)夫妻=佐伯区湯来町=は不安そうに手続きを見守った。交付がいつになるのか分からない。そもそも全員が認定されるかどうか分からない。黒い雨被害者を被爆者と認める基準が、まだ決まっていないからだ。

高裁判決が契機

 集団申請は、黒い雨を巡る訴訟の広島高裁判決(7月14日)が契機になった。判決は、黒い雨が国の援護対象区域より広範囲に降ったと認定し、原告84人全員への手帳交付を命じた。内部被曝(ひばく)で健康被害が生じる可能性があれば広く被爆者認定するべきだとも指摘した。菅義偉前首相は上告を断念。原告以外も救済するとの首相談話も閣議決定し、政治決着を図った。

 しかし、新たな認定基準づくりは難航している。国は基準を「科学的な線量推計」を基にすると主張してきた。新基準は、その抜本的な見直しが不可欠だ。ただ首相談話でさえ、高裁判決について「被爆者援護制度の考え方と相いれない」と指摘し、不満をあらわにした。国と広島県、市の協議の行方は見通せない。

 原爆投下から76年。国の線引きによって援護の枠外に置かれ続けた黒い雨被害者に残された時間は少ない。「手帳が欲しい。黒い雨を浴びながら生き抜いた証しにしたいんです」。帑さんは他の申請者の思いを代弁するように語った。

黒い染み

 1945年8月6日朝、爆心地から約15キロ離れた砂谷国民学校(現湯来南小)の教室にいた。当時6年生。「突然、黄色い光がさく裂し、窓が粉々に吹っ飛んだ」。校舎裏の小川に一時避難し、東の空に立ち上った「真っ黒な入道雲」を見ながら家路を急いだ。みるみる頭上に広がった雲は雨粒を落とし始め、シャツに黒い染みができた。

 美智子さんは2学年下の幼なじみ。あの日、帑さんと同じ小川へ逃げ、帰り道に黒い雨を浴びた。

 2人は60年に結婚し、大阪で暮らした。美智子さんは結婚から間もなくして子宮筋腫を患った。帑さんは50代以降、糖尿病や白内障などの手術を何度も受けた。黒い雨のせいでは―。浮かぶ疑念を懸命に振り払ってきた。2人が雨を浴びたのは援護対象区域外。差別や周囲の視線も気になった。

 2人は2003年に古里の湯来町に戻った。15年11月、区域外で黒い雨を浴びた住民たちが手帳交付を求め、広島地裁に提訴したことをニュースで知った。訴訟には参加しなかった。「原爆の記憶を封じ込めてきたことに後ろめたさがあった」。帑さんは明かす。

 県の推計では、区域外で黒い雨に遭うなどした人は原告と死者を除き約1万3千人。高裁判決後、県内の各市町に計461件(22日現在)の交付申請があり、今後も増える見通しだ。

 新基準づくりが進展を見せない中、被爆地から初選出となる岸田文雄首相の政権が発足。衆院が解散され選挙戦に突入した。原告弁護団の竹森雅泰弁護士はくぎを刺す。「解散による政治空白や衆院選の結果が、被爆者援護行政の見直し議論に影響を与えるようなことがあってはならない」(松本輝)

「黒い雨」訴訟を巡る確定判決と政府方針

 国は1976年、黒い雨が降った卵形のエリアのうち、爆心地から広島市北西部にかけての長さ約19キロ、幅約11キロを援護対象区域に指定した。今年7月14日の広島高裁判決は昨年7月の一審広島地裁判決に続き、援護対象区域よりも広範囲に降ったと認定。被爆者認定は「放射能による健康被害が生じることを否定できないと立証すれば足りる」と判断し、原告全員に被爆者健康手帳を交付するよう命じた。菅義偉前首相は上告断念を表明し、原告の勝訴が確定。政府は「訴訟への参加・不参加にかかわらず認定し、救済できるよう早急に対応を検討する」との首相談話を閣議決定した。

(2021年10月23日朝刊掲載)

年別アーカイブ