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[ヒロシマの空白 被爆76年] 供養塔遺骨 やっと帰宅 本紙取材で身元判明 85歳の孫、涙

 平和記念公園(広島市中区)の原爆供養塔に安置されている遺骨のうち1人について広島市は、身元を梶山ハルさんだと特定して24日、孫の武人さん(85)=佐伯区=たち遺族に返還した。「あの日」から76年を経て、原爆犠牲者の遺骨が肉親と「再会」した。

 市が遺骨を返還する際、通常は原爆供養塔前で行うが、武人さんの体調を考慮し、原爆被害対策部調査課の職員らが特別養護老人ホームに武人さんを訪ねた。原爆供養塔を管理する広島戦災供養会の畑口実会長(75)が、武人さんの長男修治さん(56)=大阪府茨木市=に納骨袋を手渡した。

 武人さんは、新型コロナウイルス対策のため施設内から窓ガラス越しに見守った。手を伸ばし、納骨袋をなでるしぐさで「やっと帰ってくれた。胸のつかえが取れた」と涙を流した。

 その後修治さんたちが原爆資料館(中区)に出向き、骨つぼの中にあったハルさんの遺髪と髪留めや、武人さんの4歳違いの姉で被爆死した初枝さんの遺品を寄贈。江田島市にある梶山家の墓で納骨を済ませた。

 遺骨の身元の判明は、本紙取材がきっかけだ。武人さんの母の故瀧子さんは、義母であるハルさんの名前や遺影を国立広島原爆死没者追悼平和祈念館に登録していた。担当記者が原爆供養塔の納骨名簿にある「鍛治山はる」と照合し、名前の読みと住所の「皆実町三丁目」が一致することに気付いた。昨年1月、武人さんに連絡。修治さんは市に調査を依頼した。

 調査課によると、当時の土地台帳に「鍛治山」という名前が見当たらないことや、遺骨に関する問い合わせがほかになかったことから、「被爆後の混乱の中、誤って記録された可能性がある」と結論づけた。昨年3月に返還手続きをほぼ終えたが、新型コロナの感染拡大で延期していた。

 武人さんは、1945年春に旧満州(中国東北部)へ渡るまでハルさんと一緒に暮らしたという。ハルさんは61歳の時に富士見町(現中区)付近で被爆死したとみられる。修治さんは「漢字を間違えたとはいえ、誰かが『鍛治山はる』の名を書き残し、記者が情報をつなげてくれた。ありがたい」と話す。

 原爆供養塔の引き取り手のない遺骨は「約7万体」とされ、うち814人に名前がある。市は納骨名簿を毎年作成している。昨年以降、ハルさんのほか理化学研究所(本部・埼玉県和光市)から引き渡された2人の遺骨の遺族が判明している。(湯浅梨奈)

(2021年10月25日朝刊掲載)

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