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証言 記憶を受け継ぐ

『記憶を受け継ぐ』 笹口里子さん―「一番電車」懸命に乗務

笹口里子(ささぐち・さとこ)さん(90)=広島市西区

復興の象徴。これからも多くの人に勇気を

 原爆が投下され、広島が焼け野原になった3日後の8月9日に、街を走り抜(ぬ)けた路面電車は復興を象徴(しょうちょう)する「一番電車」と呼ばれ、語り継(つ)がれてきました。乗務した1人が笹口(旧姓岡)里子さん(90)です。当時14歳。混乱の中、懸命(けんめい)に車掌(しゃしょう)を務めました。

 現在の大田市で生まれ育った笹口さんは、広島市皆実町(現南区)にあった広島電鉄家政女学校へ進学した二つ違いの姉、喜久子さんから聞かされた「都会」に憧れ、1944年夏に広島市へ移り住みました。「建物が並び、電車が走るのを見てすごいと思った」と振(ふ)り返ります。

 姉の担任の家に居候しながら己斐国民学校高等科(現己斐小)に通い、軍需工場で働きました。翌春、晴れて家政女学校に入りますが、戦争中で勉強の時間はほとんどありません。わずか1週間の研修で、停留所の名前や「乗車券をお持ちでない方はいらっしゃいませんか」といった車掌用語を必死で覚え、働き始めました。

 8月6日は、昼から勤務する日でした。学校に隣接(りんせつ)する寮(りょう)の食堂で朝食を取り始めた時です。「突然、窓の外に青白い光がぶわーっ、と広がった」。爆心地から約2キロ。気を失い、腰(こし)の痛みで目が覚めると、がれきの下敷(したじ)きになっていました。

 光が見える方を目指し、無我夢中で外へ。校庭は負傷した女学生であふれ、泣き声が響き渡りました。寮の自室に戻り、急いで防空頭巾(ぼうくうずきん)をかぶり、救急袋を持って宇品方面を目指します。原爆の熱線のせいなのか、防空頭巾から煙が出ていたといいます。

 神田神社(現南区)に一時避難(ひなん)した後、姉妹校の広島実践高等女学校(現広島修道大協創中・高、西区)へ歩いて行くことになりました。崩れた家の下からうめき声が聞こえました。水槽(すいそう)に頭を突っ込んで息絶えた人の姿も見えます。欄干(らんかん)から川を見下ろすと、膨(ふく)れ上がった遺体で埋(う)め尽(つ)くされていました。

 日が暮れたころ、ようやくたどり着きます。負傷した広電関係者がひっきりなしに運び込まれ、講堂の隣の図書室は遺体の収容所になりました。広島原爆戦災誌によるとあの日、約950人が出勤し、運転士や技術者たち185人が死亡。家政女学校の生徒も約30人亡くなりました。

 笹口さんは、制服を着たまま、講堂に雑魚寝(ざこね)しながら救護を続け、負傷者の傷口にわくうじ虫を取り除きました。それでも、翌日に亡くなる人もいました。裏山に遺体を運ぶと、男の人が大きな穴に投げ入れて焼いていきます。「見覚えのある女学生の遺体もあった。怖(こわ)くて走って逃げた」

 運行再開の知らせを聞いたのは8日夕刻だったと記憶しています。「明日から電車が走る」。先生の指示を受け、翌朝、己斐―西天満町間で車掌業務に就きました。肉親を捜す人や、兵士が次々に乗ってきます。運賃を支払おうとする乗客に「今日はお金はいりませんよ」と伝えると、「ありがとう」と喜ばれました。

 終戦の前日まで乗務し、17日ごろ姉と大田市へ戻りました。2人とも髪(かみ)が抜けるなどの症状に苦しみました。喜久子さんは、57歳の時に胃がんで他界。幸い笹口さんは大病を患うこともなく今年、卒寿(そつじゅ)を迎えました。「午前番だった5日に原爆が落ちていたら、どうなっていたか…」との思いは今でも消えません。

 最近、広電本社(中区)の千田車庫を訪れ、久しぶりに被爆電車と対面しました。「76年たってもよう走っているなあと思う。これからもたくさんの人を勇気づけてほしい」と願っています。(桑島美帆)

私たち10代の感想

仕事やり抜いた姿感動

 笹口さんが担当していた車掌の仕事は、広島の人々にとって大切な役割だったと感じました。自分自身のことで精いっぱいな時でも、仕事をやり抜いた笹口さんを尊敬します。広島の街は、みんなが助け合い、支え合って被爆後に復興しました。原爆の恐ろしさだけでなく、復興に力を注いだ人たちの存在も学び、発信していこうと思います。(中2吉田真結)

私も周囲支える存在に

 原爆投下からわずか3日後に電車の車掌を務めた笹口さん。学校の先生に「明日から車掌をしてほしい」と頼まれた時「もう電車が走るんだ」と喜びを感じたそうです。私だったら、廃虚(はいきょ)の街で仕事をする勇気は出ないと思います。笹口さんたちが被爆電車を動かして人々に希望を与えたように、私も周りの人を支える存在になりたいです。(高2岡島由奈)

戦時中の暮らしを想像

 笹口さんは原爆が落ちた時、屋根に押しつぶされ、非常袋と防空頭巾を持って逃げました。自分の部屋にあった大切な物を置いて逃げたことを後悔しているそうです。戦争中は、何が起こるか分からない緊張感の中で暮らしていたことが伝わってきました。今でも紛争地域では、同じような緊張感の中で生活している人がいることを改めて考えました。(高2桂一葉)

(2021年10月25日朝刊掲載)

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