生きた教材 被爆樹木 303ページに 広島の田中さん自費出版
21年10月25日
劣化に焦り 90種撮影
76年前の惨禍を生き延びた木々を紹介する「被爆樹木雑学ノート」を、広島市東区の田中啓文さん(81)が自費出版した。爆心地から2キロ圏に残るクスノキやイチョウなど約90種を撮影し、原爆の痕跡と生育状況をつづる。旧満州(中国東北部)から引き揚げた過酷な体験を重ね、「戦争と原爆の生き証人を枯らしてはならない」との願いを一冊に込めた。
黄緑の葉に覆われた爆心地近くのシダレヤナギ、報専坊(中区)の本堂前にそびえ立つイチョウ―。A4版、303ページに写真約130枚を掲載する。巻頭には、傷みが激しい広島城(同)のマルバヤナギや、頼山陽文徳殿(南区)のソメイヨシノなど8種を挙げ、マップも付けた。
「一本一本が、被爆の記憶を後世へつなぐ生きた平和教材。枯死する前に2、3世を育てる活動がもっと広がってほしい」と思い立ち、市がリスト化した160本の大半をカメラに収めた。木の劣化状況が分かるよう、試行錯誤を重ねて撮影。幹が腐り、寿命が尽きそうな木々を見て焦りを募らせながら、3年がかりで出版した。
田中さんは1939年に旧満州で生まれ、6歳だった46年7月、両親と兄、弟の5人で焼け野原の広島へ戻った。貨車と貨物船を乗り継いだ道中は悲惨だった。「子どもが衰弱して死ぬと、遺体が白い布にくるまれ海に投げられた。スクリューのそばでプカプカ浮かぶ光景が忘れられない」
南満州鉄道に勤めていた父は敗戦で職を失った。田中さんは小学5年から市内の野菜店に住み込み、働きながら学校へ通った。「しょっちゅうよその畑から野菜を失敬した。原爆孤児の友人も多かった」と明かす。
「思い出したくない」という幼少の頃から、命をつなぐ被爆樹木に思いを寄せていたという。奨学金を得て大学へ進み、旧建設省に就職。広島市へ出向後、都市整備を担当する中で被爆樹木に触れる機会が増えた。「退職後に本を出そう」と志した。
「戦争は命だけでなく人々の生活も脅かす。子にも孫にも絶対経験してほしくない」と田中さんは語る。ペンネームの大曽根文平として600部発行し、県内の主な図書館や大学、中高へ寄贈した。(桑島美帆)
(2021年10月25日中国新聞セレクト掲載)