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連載・特集

「がんす横丁」シリーズ がんす横丁 (五十)車屋町から豆腐屋町まで(その2)㊦

文・薄田太郎 え・福井芳郎

 元安橋は、西詰にもいろいろな広告看板が並べられた。その中に「天女あつまる羽田別荘へ是非(ぜひ)いらっしゃい」という奇抜な文字を描いて人目をひいたことが、今でも広島人の昔話になっている。

 明治三十四年版の広島地図では、細工町八番地本条商店が小間物と美術貴婦人用品を商なっている。その細工町を後にして、横町の勉強堂と木定食料品店を抜けると、鳥屋町である。同じ地図には、この入口の角に三戸頼三氏の呉服店ともえ屋があった。

 三百年前の承応年間(1652~55年)の図には豆腐屋町と書いてあって、万治三年(1660年)の文書には鳥屋町と書いてある。町年寄、鳥屋八右衛門の屋号に因(ちな)んでこの町名が付けられたものである。現在でもある粋人は、鳥屋町通りを豆腐屋小路と言って、かつての淀川ずしの味を思い出している。

 その鳥屋町のことについては、「小山内薫氏と広島」の項で「鳥屋町と言っても別に鳥屋があったところではなく、この裏通りを別の名で釘屋(くぎや)小路と言っていた。あるいは釘屋があったのでそのように言われたのかも知れない」と書いたが、その後、鳥屋八右衛門に因んでこの町名があったことを知った。その町名よりも古い豆腐屋町の名をも加えて、前の一文を訂正したい。釘屋小路の名称については、今後の問題にゆずるとしよう。

 この小路が活発な動きを見せたのは汽車のなかったころで、細工町や大手町、東本川、西本川、塚本町、中島本町などと共にこの辺りの船問屋が船宿を兼ねて水上交通の役目を果した。そのころ、広陸丸以下数隻の船を運転していた汽船問屋の波多文治氏や、また同じ町内の汽船問屋立石長吉氏は、尾道から竹原、糸崎、遠くは多度津(香川県)、岩国、長浜(愛媛県)のあたりまで船を動かしていた。

 あの大雁木(がんぎ)を中心に旅行者の往来が激しく、鳥屋町界隈(かいわい)は一入(ひとしお)の賑(にぎわ)いを見せていたとのことで、旅籠(はたご)業には木原屋の渋谷嘉助氏などの名前が見られる。この回漕(かいそう)店と旅館とのコンビは、上げ潮の都合で早朝に船出することからこの結びつきがあった。可部勘、虎屋が著名であったことも思い出される。七つの川が流れている広島の特性がこの辺りにも現れていたワケで、四国伊予方面へは毎月一、六、三、八のつく日、馬関(下関)へは一、六のつく日と、出船日取通知が記入された札を店先にかけていた船問屋風景も懐しまれる。

 あの狭い小路には、昔流のノレンをかけた風呂屋や餅屋、炭屋、豆腐屋もあったようで、原爆後この一円は小公園地帯になるよう計画されている。

(2018年4月8日中国新聞セレクト掲載)

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