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連載・特集

「がんす横丁」シリーズ がんす横丁 (五十一)猿楽町界隈(かいわい)(その1)㊤

文・薄田太郎 え・福井芳郎

 猿楽町は文字どおり、能役者や猿楽師たちが住んでいたところから、この町名が残っている。能役者と城主とのつながりは毛利氏いらい密接なもので、とくに浅野氏の入城時代から催された宮島能には大きな役割を果して、藩における能役者の位置はかなり高いものであった。

 厳島神社に奉仕している能役者も広島に住んだ。祭典の何かのため、夜遅く家路をたどり江波を通りかかった能役者が「おさん狐(ぎつね)」に出会った話も有名である。

 藩お抱えの能役者のうちには、シテの中村市之進、ワキの高安彦之亟、太鼓の金春市左衛門など有名な能役者があった。また伊藤八郎という狂言師が天保六(1835)年、宮島の夏市に来演した中村歌右衛門の「鬼界ケ島」をみて「後向きの俊寛」という批評をして、歌右衛門を感服させた話も伝えられている。

 また八助の長男八之助も、平素両刀を許されたほどの妙手で、靭猿(うつぼざる)(狂言の演目)にもっとも長じていたと言われる。

 なお、前述の高安彦之亟は、ナゾを即座に解く名人ともいわれて、その一例には「うどんげに花咲くとかけて」と問いかけたのに対し、彦之亟は直ちに「死人の笑い顔」と答え、その心は「みたものがない」と解いたとのことだ。猿楽町の町名にちなんで、以上、能役者のそう話を「広島蒙求」から引用した。

 現在、旧藩の流れをくむ人には喜多流職分の粟谷益二郎師がある。同氏は三代にわたって浅野家につかえた能楽師で、大手町四丁目の生れ。中央能楽界に五十余年の地位をつづけている。饒津(にぎつ)神社の能楽堂では三百年祭以来、しばしば観世左近師や喜多六平太師の演能もあり、ここ三十年来、金剛厳師の広島上演もあって、広島能楽界は昔に変らぬ伝統をみせている。

 この猿楽町は爆心地にあるだけに、荒涼たる街の様相をみせている。その昔、元安河畔に産業奨励館と広島商業会議所が相ならんで、その名もゆかしい旧相生橋とのバランスは、慈仙寺鼻の料亭街を背景にして広島特有の河(かわ)風景を描き出していた。

 猿楽町から慈仙寺鼻、この鼻から鍛冶屋町に架けられた二つの橋を結んでの相生橋は、広島人からなじまれた名橋である。雨の降る日、この橋の上を蛇の目傘が流れてゆく風景は、そのままが一幅の絵画であった。

(2018年4月15日中国新聞セレクト掲載)

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