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連載・特集

「がんす横丁」シリーズ がんす横丁 (五十一)猿楽町界隈(かいわい)(その1)㊦

文・薄田太郎 え・福井芳郎

 昭和七年、T型の新相生橋の建設が企画され、やがて旧相生橋が姿を消すのを機会に、町内有志で昭和十四年に「相生橋於碑」を旧相生橋跡に建てた。

 旧相生橋の思い出になるが、元安川の橋は長さ三十九間(約71メートル)、幅二間(約3・6メートル)、本川の橋は長さ四十六間半(約85メートル)、幅二間半(約4・5メートル)。明治十年二月、岩崎永助氏や桐原威平氏ら十二名の人たちが私費で橋を架けることを申請し、間もなく許可を得て翌十一年七月十四日、慈仙寺鼻埋立地工事の終ると同時にこの橋が出来あがった。

 それより架橋工費を償うために通行人から渡し賃を取ったが、明治二十七年十二月三十一日限り、この渡し賃制度を廃止して翌元日から広島市の管理に移したといういきさつがある。

 現在、旧相生橋跡の真中には、高さ一間(約1・8メートル)もある自然石に、当時県商の先生であった紀本翠窓氏が旧相生橋を偲(しの)んでの碑文が刻まれている。この「相生橋於碑」も原爆を浴びて、十四行に刻まれた二百五十の漢字のうち、その三分の一は放射熱に焼けただれているのも痛ましい。

 碑文には旧相生橋の由来が刻まれて、昭和七年、広島県当局が新相生橋の建設に乗り出し、昭和十四年、新橋完成と同時に旧橋の跡に、旧相生橋の追憶を後世に伝えるためにこの漢文碑を建てたものであると結んである。建設日が皇紀二千六百年庚辰十月穀日と刻まれている。

 架橋出願者十二人の氏名も刻まれ、橋名盤の「相生橋」を右に「あひおひばし」を左にそのまま残して、碑の台石の一部には建設世話人として宮本貞蔵、石井市太郎、増田熊市、林義治、笠井伊兵衛、岩崎永助の六氏の名前が刻まれているのも、これらの人たちがほとんど原爆に亡くなっているだけに、痛ましい記念物となっている。

 なお、この橋の近くにあった木造二階建の広島商工会議所のことも忘れられない。原爆当時はすでに現在地に立派な会議所が建てられているが、広島商業会議所が誕生したのは明治二十四年三月で、創立当時の事務所は大手町一丁目の商工倶楽部(くらぶ)の内に置き、その後、相生橋畔の猿楽町に移転したのは明治四十年一月であった。

(2018年4月22日中国新聞セレクト掲載)

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