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連載・特集

「がんす横丁」シリーズ がんす横丁 (五十二)猿楽町界隈(かいわい)(その2)㊤

文・薄田太郎 え・福井芳郎

 猿楽町で忘れてならないのは、原爆ドームの産業奨励館である。この建物はかつて物産陳列館、商品陳列所といわれた時代もあった。

 前身の物産陳列館は明治十一年十一月、下中町に開設されて、内外の物産を陳列して一般公衆に観覧させたのが最初で、その後明治四十二年七月、大手町一丁目の東横町勧商場のうちに、資本金五万円の株式組織で広島商品陳列所を設けて、広島県の生産品を陳列即売した。

 時世の推移によって、広島県当局でもこの種の商品陳列所を設けることになって、大正三年一月、元安河畔に広島県物産陳列館の工事を起した。この年の夏の夜には、この敷地に納涼場ができて、子供相撲なども盛んに行われた。筆者も黒モスの帯を褌(ふんどし)にして、四本柱になぞらえた青ザサの下で相撲をとったことを覚えている。

 その後、三階建のこの建物は一年後完工して、大正四年四月五日、広島県共進会の第一会場として誕生し、その年の八月五日から広島県物産陳列館と看板をかかげ、そののち産業奨励館となった。

 昭和十九年五月限り、この名称も消えてもっぱら県土木関係そのほかの事務所に当てられ、翌二十年八月六日、あの原子爆弾下にさらされた。初代の所長は豊島鋭郎氏で、二代は峰松真三郎氏。同氏は中国、南方方面への対外貿易に独自の手腕をみせた人であった。

 この産業奨励館はドーム型の屋根を中心に、レンガを積みあげた三階建の洋館で、分離派様式の建造物としては、もともと世界的な建築といわれていた。それが原爆による半壊記念物となってからは、別の意味での世界的建造物ともなった。

 同館に勤務していた土井他人之助氏や、この建物の開館以来、終戦前年までの三十年間をこの洋館とともに生き抜いた槇田文子女史から聞いた話によると、昭和初年に刊行された世界優秀ビル集の終りから四番目にランクされていたと言う。

 流布した一説に、産業奨励館は第一次世界大戦のとき、似島収容所にいた捕虜ドイツ人建築技師によって設計され、広島工業学校の協力で建てられたというのがあった。第二次世界大戦につながる因縁を持っていると言い伝えられているが、ドイツ人捕虜が設計した云々(うんぬん)も明かに誤りで、筆者たちがハッキリ覚えているのは、彼らが似島時代の作業品すなわち木工品や化粧品、香水などを三階会場に陳列してバザーを開いたことである。ドイツ人捕虜がこの建物に協力したということは、すでに伝説の部類に入っている。

(2018年4月29日中国新聞セレクト掲載)

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