「がんす横丁」シリーズ がんす横丁 (五十三)中町界隈(かいわい)㊤
18年5月13日
文・薄田太郎 え・福井芳郎
国泰寺の大樟(くすのき)がみられた界ワイには、寺が管理していた土地が小さかったところから小町といわれた辺りなど、いろいろな小路があった。
国泰寺は、石田三成とともに鴨川刑場の露と消えた安国寺恵瓊(えけい)が開基したもので、広島になじまれた大樟は彼が同寺創建のとき植えたものと伝えられている。一説には慶長六(1601)年、福島正則の治世に、正則の弟琳英上人が植えたものとも言われる。この大樟のすぐ傍らには豊臣秀吉の「もとどり(遺髪)塚」もあって、恵瓊の墓や、赤穂義士大石良雄の妻、三男大三郎の墓もあって、古くから広島人とつながりのあった寺である。
あの樟は四本あったが、北側にあったものが一番大きくて周囲は二丈四尺(約7・3メートル)、中央の東にあるもの一丈九尺(約5・8メートル)、中央の西にあるもの一丈六尺(約4・8メートル)、南側にあるもの一丈三尺(約4メートル=いずれも大正十四年の記録)。全国でも珍しい樟として、昭和三年十一月内務省から天然記念物に指定されたが、原爆の厄にあって樹齢三百年の名木も一瞬に枯木になり、昭和二十一年十二月、三滝の某製材所に二万四千円で売り払らわれた。
なお、一番大きい樟の切り口は四畳半もあって、これらの樟を切って板にするには半年もかかったとのことである。
この樟のあった北側は袋町で、明暦三(1657)年の火事の後にできた町である。西堂川のあったころ、大手町の三丁目と四丁目のキジヤ小路を抜けると、塩屋町に高厳(こうがん)橋があった。この橋は木橋で、禅林寺を開いた僧高厳が架けたので高厳橋といわれて、東の杉の木小路への通路であった。もっともこの橋は宝暦八(1758)年四月三日の大火で焼け落ちたために、それ以後は塩屋町から杉の木小路への交通は、北側の高基橋があてられたようである。
「杉の木小路」は、大体に電車道から旧知事官舎のあった中町までを東西に抜けた小路で、小路としてはかなり広い道路である。鉄砲町の「梅の木小路」同様、「杉の木小路」のイワレについては判然としない。
この小路で一般によく知られているのは、国泰寺の大樟と相対した地点に、頼春水の屋敷跡があったことである。原爆まで昔のままの頼山陽先生の仁室、すなわち山陽先生が幽閉中、この部屋で日本外史を書いた部屋があり、後に山陽記念館として保存されたものである。
文化十一(1814)年八月、頼山陽は三十五歳の時、父春水の看病のため広島に帰省した。九月十一日の夕方、本川から船で東上した時、はるかの彼方(かなた)に傘のように見えたこの大樟のことを次のような漢詩によんでいるが、いまにして思えば懐しい国泰寺の樟であった。
舟進洲移城漸遠
遥見送者自厓返
一株如蓋立薄暮
猶認爺家対門樹
(2018年5月13日中国新聞セレクト掲載)
国泰寺の大樟(くすのき)がみられた界ワイには、寺が管理していた土地が小さかったところから小町といわれた辺りなど、いろいろな小路があった。
国泰寺は、石田三成とともに鴨川刑場の露と消えた安国寺恵瓊(えけい)が開基したもので、広島になじまれた大樟は彼が同寺創建のとき植えたものと伝えられている。一説には慶長六(1601)年、福島正則の治世に、正則の弟琳英上人が植えたものとも言われる。この大樟のすぐ傍らには豊臣秀吉の「もとどり(遺髪)塚」もあって、恵瓊の墓や、赤穂義士大石良雄の妻、三男大三郎の墓もあって、古くから広島人とつながりのあった寺である。
あの樟は四本あったが、北側にあったものが一番大きくて周囲は二丈四尺(約7・3メートル)、中央の東にあるもの一丈九尺(約5・8メートル)、中央の西にあるもの一丈六尺(約4・8メートル)、南側にあるもの一丈三尺(約4メートル=いずれも大正十四年の記録)。全国でも珍しい樟として、昭和三年十一月内務省から天然記念物に指定されたが、原爆の厄にあって樹齢三百年の名木も一瞬に枯木になり、昭和二十一年十二月、三滝の某製材所に二万四千円で売り払らわれた。
なお、一番大きい樟の切り口は四畳半もあって、これらの樟を切って板にするには半年もかかったとのことである。
この樟のあった北側は袋町で、明暦三(1657)年の火事の後にできた町である。西堂川のあったころ、大手町の三丁目と四丁目のキジヤ小路を抜けると、塩屋町に高厳(こうがん)橋があった。この橋は木橋で、禅林寺を開いた僧高厳が架けたので高厳橋といわれて、東の杉の木小路への通路であった。もっともこの橋は宝暦八(1758)年四月三日の大火で焼け落ちたために、それ以後は塩屋町から杉の木小路への交通は、北側の高基橋があてられたようである。
「杉の木小路」は、大体に電車道から旧知事官舎のあった中町までを東西に抜けた小路で、小路としてはかなり広い道路である。鉄砲町の「梅の木小路」同様、「杉の木小路」のイワレについては判然としない。
この小路で一般によく知られているのは、国泰寺の大樟と相対した地点に、頼春水の屋敷跡があったことである。原爆まで昔のままの頼山陽先生の仁室、すなわち山陽先生が幽閉中、この部屋で日本外史を書いた部屋があり、後に山陽記念館として保存されたものである。
文化十一(1814)年八月、頼山陽は三十五歳の時、父春水の看病のため広島に帰省した。九月十一日の夕方、本川から船で東上した時、はるかの彼方(かなた)に傘のように見えたこの大樟のことを次のような漢詩によんでいるが、いまにして思えば懐しい国泰寺の樟であった。
舟進洲移城漸遠
遥見送者自厓返
一株如蓋立薄暮
猶認爺家対門樹
(2018年5月13日中国新聞セレクト掲載)