×

連載・特集

「がんす横丁」シリーズ がんす横丁 (五十三)中町界隈(かいわい)㊦

文・薄田太郎 え・福井芳郎

 この杉の木小路に面した国泰寺境内には、旧広島初代藩主浅野長晟(ながあきら)の墓がある。墓ヒはミカゲ石造り五輪塔の立派なもので、原爆風もものかは、三百二十年前の姿をそのまま残している。

 この墓域にあった桜の木は「御廟様(おたまやさま)の桜」として広島名所の一つであった。なお、時代は変るが二十五年も前、この御廟様の正門前に住んでいた洋服屋の高橋さんは、広商ビイキの野球ファンとして知られていた。

 この小路は、国泰寺の関係で住家も一方だけ並んでいたさびしいところで、新川場町の料亭山万への往(ゆ)き還(かえ)りに、西地方町券番の姐(ねえ)さんたちが大時代な人力車に颯爽(さっそう)と斜に座った容姿も忘れられない。

 知事官舎のあった中町は、広島の中央部にあったところから中町と言われ、一時は西魚屋町から戒善寺が東寺町に移転してきて、戒善寺中ノ町と言われた時代もあった。戒善寺とは例の「地獄極楽の図」を持っていた寺である。

 次に中町知事官舎の角、すなわち旧県立高女への道路に、黒塗りの火の見櫓(やぐら)から東は新川場町へ抜ける小路を「厘米(りんまい)小路」といった。別名を「だいだい小路」とも言ったが、そのいわれについては知られていない。最も「厘米」という言葉は、福島時代からはじめられて、浅野時代にもこの言葉というより「厘米制度」が代々踏襲された。

 「厘米の始」と言われるこの制度は、福島時代からの制度で元和八(1622)年に、高千石について米十石をその筋に納めるという「一歩米制度」がそもそものはじまりである。

 それが地方の村里に限って高千石に対して七石を納めるという一種の課税制が行われ、そうした七石の収米を集めて、藩内の渡守の給米にあてたり、橋や堤防、池沼などの修繕費用にあてたものである。高千石について七石を納めるとその率は七厘に当るので、城下の一歩米に対して「厘米」という言葉が出来あがったワケである。

 もっとも、この厘米の言葉が「厘米小路」とどのような関係があったか判明していない。毛利時代、平田屋川が開かれて広島築城の資材が運ばれたころ、新川場町あたりまで海陸産物を積んで船が出入りした関係で、あるいは厘米俵などがこの船揚町に陸揚げされて、この小路名になったのかも知れない。

 なお、平田屋川は竹屋町界ワイで竹屋川というが、この竹屋川の左岸、竹屋橋と富士見橋の中央に排水ヒがあって、ここから東への小路を「樋(ひ)の小路」と言い、また旧竹屋町の中央から南方の畑へ通じる道を「玉屋小路」といった。

(2018年5月20日中国新聞セレクト掲載)

年別アーカイブ