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連載・特集

「がんす横丁」シリーズ がんす横丁 (五十四)塩屋町と尾道町㊤

文・薄田太郎 え・福井芳郎

 竹屋町の樋(ひ)の小路橋を渡って雑魚場町を回ると、旧広島一中の運動場があった。その南側に密集している家屋の一角に、みどり色の星の印をつけたとんがり帽子型の塔がみられた。

 これが森本二泉氏が主宰していた「みどり幼稚園」で、広大な邸宅を囲んだ狭い道路を、世間ではいつとはなしに「森本小路」と言った。

 話は専ら昭和初期のことであるが、この小路の主人公森本二泉氏は、私財を投じて広島における文化運動の先駆を勤めた人で、自宅を開放して保育室をつくったり、玄関から庭一杯にレールを敷いて幼児たちと一緒にトロッコを走らせたりした。昭和三年ごろには多数の園児のうちに、映画の月丘夢路、千秋の姉妹もいた。

 彼の幼稚園事業は予想外の効果を現わした。矢つぎ早やに石井漠や藤蔭静枝の新舞踊などを寿座で主催公演したり、斯界(しかい)の先輩巌谷小波や江見水蔭の両先生などを広島に招いて、別府へお伽(とぎ)船を出すなど児童愛護運動に専念した。

 またエスペラント語やローマ字の普及にも乗り出したが、いずれも芳しからぬ結果に終った。経済的観念を欠くところのあった同氏は、当時彼を頼って来た無名文士、童話家、無名画家たちの面倒をみた。そして昭和九年ごろ彼の夢みた育児事業も失敗、親譲りの財産を使い果して、全国的に知られた「みどり幼稚園」も閉鎖した。かくまでに私財を投げだして、広島の文化運動に身を尽した同氏のその後の事情が判明しないのは遺憾である。

 話を塩屋町に移すが、大正元年十一月二十三日に電車が開通して、石切町や板屋町などは取り壊されて、大手町通り東側の塩屋町と尾道町が辛うじて昔の面影を残した。さらに原爆後は新しい都市計画のワクに縮められて、今や片側町の形となっている。以下、往時の「がんす横丁」を再現してみよう。

 紙屋町につながる塩屋町の由来については、承応年間(1652~55年)の広島絵図に塩屋何某(なにがし)という家が並んでいるが、その家の前にも塩屋という家が多かったため、そのままの名が町名となったといい伝えられている。

 別のいい伝えでは、昔から塩をつくる商家が多くて、この町名が出来たといわれる。そして広島知新集には「浜側の家作りは寛政七、八(1795~96)年ごろより許さる」とあるので、かなり古くから塩がつくられたものらしい。

(2018年5月27日中国新聞セレクト掲載)

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