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連載・特集

「がんす横丁」シリーズ がんす横丁 (五十四)塩屋町と尾道町㊥

文・薄田太郎 え・福井芳郎

 塩屋町で思い出されるのは三十五年前(大正九年)に、増田兄弟活版所の隣にあった専勝寺で、広島十一人座が倉田百三氏作の「出家とその弟子」を試演したことである。

 松井須磨子を亡くした芸術座が、中山歌子の「カルメン」を持って大正八年四月に寿座公演をしたのを機会に、広島在住の報道人を中心に同年十一月十一日、素劇団十一人座を結成した。そして翌九年一月二十七日のおたい夜に、専勝寺で「出家とその弟子」が上演された。

 当夜はさすがに檀家(だんか)衆が寺に詰めかけた。雪の中に投げ出された親鸞上人の痛わしさに、感極まった善男善女は南無阿弥陀仏の念仏を唱えながら、二銭銅貨のおさい銭を、親鸞に扮(ふん)した広沢久雄君に投げつけた。

 親鸞ならぬ身の同君は、頭を抱えて逃げ出すワケにもゆかず、閉幕までこのおさい銭の苦難に甘んじた(二銭銅貨の投げ銭と言えば、まさに昔の話である)。なお、十一人座の第一回公演は同年三月三十一日と四月一日に同じ「親鸞記」を寿座で上演した。

 また、専勝寺の試演は非常に好評を博して、間もなく京都のある撮影所から十一人座全員の参加で、己斐山のあたりに雪景をこしらえて活動写真を撮ることになった。かなりの塩俵が買い込まれたとのことであるが、都合でこのロケは中止となった。

 塩屋町の寺で親鸞劇を試演した十一人座が、間もなくロケのために塩を買い込んだという因縁話は、前述通り三十五年前のこぼれ話である。

 この町の隣の通りは石切町といわれた。石切屋町ともいわれた時代もあって、石工が多く住んでいたので町名となった。この町を左に曲ると西魚屋町がある。中の棚の東魚屋町に対する西魚屋町で魚商が軒を並べていた。

 ところで「がんす横丁」にたびたび登場した戒善寺は、もともとこの町内にあったもので、この界隈(かいわい)は一時は戒善寺町といわれた時代もあった。

 塩屋町の三原屋小路から石切町への道の下には、西堂川が流れていた。そしてこの川の上に木橋の戒善寺橋があった。それが元文二(1737)年より小さい土橋に変って高基橋と改められたが、その後石橋に架け替えられた。

(2018年6月3日中国新聞セレクト掲載)

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