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連載・特集

「がんす横丁」シリーズ がんす横丁 (五十四)塩屋町と尾道町㊦

文・薄田太郎 え・福井芳郎

 高基橋は明治四十四年八月、西堂川の埋立工事の機会に取り去られて、いまでは鷹野橋同様「橋のない橋」として広島人の思い出のうちに生きている。

 なおこの高基橋については「西堂川界隈」で一度書いたが、早速読者から「高基橋とあるが小生のみた橋銘には、光基橋となっていました」とご注意をいただいたので、その次第を書き添えておく。

 塩屋町の隣につながる尾道町の由来であるが、天正年間(1573~92年)、岩国屋の祖先多田与三右衛門というものがこの土地に来て小屋住いをしていた。ゆくりなくも文禄年間(1593~96年)、備後の尾道浦から多数の石工や大工たちが広島に住み移って、広島築城を手伝ったり、城下のあちこちに家を建てたりした。そして出身地の尾道の名をそのまま町名にした。

 石工の住んだ石切町も、ほとんどが尾道から住み移った者である。石と尾道との関係は豊太閤の大阪築城以来のもの、石工が多く立派な仕事を残している。また、石に刻みつけられた文字の美しさは尾道石工の特技で、かつての漢学者たちが書いた文字がそのまま現在も生かされている。

 尾道に残されている有名な墓碑や石碑には、頼春水、杏坪、山陽諸先生たちの撰文(せんぶん)や書がそのまま再現されている。先ごろ亡くなられた尾道短大の頼成一先生も、尾道の石について「さすが尾道は石の名所だけあって、りっぱに建てられた石碑や墓碑に感じのよいのが多く、総じて美しいというより渋味のあるものが多いと想(おも)う」といわれた。尾道石工の伝統は三百五十年前、広島に尾道町が創設されて以来のもので、いまもってその技術が伝承されているワケである。

 幅十三間(約23・6メートル)の西堂川は天文二(1533)年、塩屋町と西魚屋町をつないだ高基橋(光基橋)の橋根まで、さらに幅一間(約1・8メートル)を掘り加えて船の航行の便を図った。そしてこのあたりを三味線堀と呼称したという。

(2018年6月10日中国新聞セレクト掲載)

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