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連載・特集

「がんす横丁」シリーズ がんす横丁 (五十五)大手町界隈(かいわい)(その1)㊤

文・薄田太郎 え・福井芳郎

 大手町通りは文字どおり広島城の正門通りであるが、明治時代生れの広島人からは、いまもって凱旋(がいせん)通りと言われている。昔は単に一丁目、二丁目ととなえられたが、維新後は大手門に因(ちな)んで大手筋何丁目といわれて六丁目まであった。

 その後、明治十五年一月から九丁目までに分けられ、一時は広島市の花道的存在であったが、原爆後はクシの歯が抜けたように、あまりに寥々(りょうりょう)たる街になった。以下、九丁目にわたった思い出の大手町界隈を再現して見よう。

 あのころ電車道に近い一丁目の両側には、入営記念の金文字を入れた盃(さかずき)や徳利(とっくり)を陳列した店があった。兵隊が中隊で差し繰られた(この差し繰られたという言葉は真空地帯独特の言葉で、永い兵営生活のうちで、これほど切実に感じた言葉もない)靴バケや軍手などの品を買おうと思えば、一応これらの店で買い整えられた。

 まさに員数を揃(そろ)えるための店で、軍隊生活を体験した者には思い出の店でもあった。この一丁目で忘れられないのは、広島最初の新聞「広島新聞」が発行されたことである。この新聞紙の発刊を担当したのは、藩の儒者十竹(じっちく)翁山田養吉氏であったことも、忘れてならないことである。

 明治四年の夏ころ、東京小川町今川小路に本局を置いた日新堂から、半紙二つ折、数ページをつづった新年雑誌が刊行され、ページの記事は極めて簡単なもので発行ごとに広島へも送られて来た。

 最初は一カ月三回くらい配布されたが、その年の七月、廃藩置県となって人心不安定の気配がうかがえたので、山田翁は広島でもこの新聞に似たものを発行しようということを思い立って、その準備をすすめた。

 ところが当時、広島には活字というものがなかったので、翁は広島県庁が持っていた木版の活字を借用した。さらに県庁の一室をも借り受けて、木原章六、安藤五郎、小鷹狩元凱(もとよし)の三氏の編集協力を得て同年十二月十五日、「日注雑記」(表紙に「広島新聞」ともある)第一号を刊行して大手町一丁目の静真堂で発売することになった。

 これが広島での最初の新聞で、のちにこの大手町界隈に芸備日日新聞社、中国新聞社が誕生したのも決して偶然ではなかった。

(2018年6月17日中国新聞セレクト掲載)

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