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連載・特集

「がんす横丁」シリーズ がんす横丁 (五十五)大手町界隈(かいわい)(その1)㊥

文・薄田太郎 え・福井芳郎

 参考までに「広島新聞」第一号に掲載された発刊主旨の一部を写すと次の通りである。

 「万物ノ霊ト誇(ホコリ)ナガラ飛モノ走モノニ劣(オト)リテハ気ノ毒ト云カラ、世ノ在様(アリサマ)ヲ知ラセ目的(メド)ノ着(ツ)ク様ニト此日注雑記ヲ編(アム)ナリ、馬車(バシャ)ヤ蒸気(ゼウキ)ジャ消息(タヨリ)ガ遅ヒ、懸(カケ)テ置(オキ)タヤ伝信機(テレガラフ)ト小娘(コムスメ)ガ歌ヘド、消息ヲ報ズルハ伝信機ヨリ速(スミヤカ)ナルハナシ、目的ヲ着ケルハ此雑記ヨリ早キハナシ、四方ノ諸君子目的付(ツ)ケ薬ト思ヒ只管(ヒタスラ)電覧ヲ願ト云爾(シカイフ)」

 この新聞は第二号を明治五年正月に発行した。なお発売元の静真堂は、いま(「がんす横丁」連載の1953年当時)の西警察署前にあった西洋小間物商で、広島最初の新聞が大手町一丁目の東側で誕生したことは特記すべきことである。

 この西警察署であるが、同署が広島の警察区画の改正でデビューしたのは大正四年十一月で、その前身の広島警察署が大手町一丁目西側に出来たのは明治十一年八月で、広島新聞が発刊された当時は、商家富士屋喜兵衛氏の本店がこの地点にあった。

 この富士屋喜兵衛の名は、宮島の宝物館にある長沢盧雪の「山姥(やまうば)図」の絵馬にも寄進者の一人として見られる。厳島神社に奉納されたもので、この絵については次のような挿話がある。

 この絵は宮島の数ある絵馬のうちでも円山応挙の描いた「虎図」とともに有名で、盧雪が応挙の高弟であるだけに、宮島でこの二つの絵馬が同時にみられることは有難いと思う。

 盧雪は山城の淀藩(京都府)出身の画家で、広島本川岸に上陸して、中島本町の商家三国屋(富士屋の分家で藤井徳兵衛氏とも親せきに当る)にゾウリを脱いだ。間もなく本家富士屋に頼まれるまま、「山姥」の絵馬を描いて厳島神社に奉納した。

 ところが、この「山姥」の絵は宮島のほかにもう一枚、幕末当時に大手町一丁目本通り角にあった油商大杉屋三木氏の家にあったという。この絵は下絵で、現在の宮島のものとほとんど変らない構図のものであった。この大杉屋はその後、明治年間には洋産物商井原青陽堂となった(この店は昭和十年ごろまで、同じ場所で開業していた)。

(2018年6月24日中国新聞セレクト掲載)

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