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連載・特集

「がんす横丁」シリーズ がんす横丁 (五十五)大手町界隈(かいわい)(その1)㊦

文・薄田太郎 え・福井芳郎

 ところで問題の大杉屋の「山姥(やまうば)」の図は、何時(いつ)の間にか姿を消して行方不明となった。また、同じころ岩国方面にも同じ長沢蘆雪の描いた「山姥」の絵をみたという者があって、同じ絵三枚のうちの傑作が、宮島に奉納されたものとも言われている。

 先年、「モナリザ」の絵が三枚発見されて世界中の話題になったように、この「山姥図」も維新直後、宮島、広島、岩国の三つの土地で、それぞれのモノがあったと言い伝えられたそうである。これは、翠町在住の高木正美氏から筆者が聞いた話である。

 なお、余談であるがこの「山姥図」は、もともと絵馬として高い所に置かれて見えるように描かれたものといわれる。すなわち宮島の回廊に掲げられ、山姥の足元が参詣者たちの目の高さに一致したところで見られるように描かれたもので、それだけに童子(金太郎)の頭が特に大きく描かれてあるあたりは、蘆雪の遠近表現のなみなみならぬ苦心が現れている。

 また、山姥の顔の凄味(すごみ)は一段と光っているが、それでいて童子の手を引いているつながりと、顔の表情には言い知れぬ慈愛がそのまま現れている。

 この山姥の顔の構図は、能で言えば表(おもて)を切ったポーズがハッキリと出ており、童子の赤い肌色と山姥の茶カッ色の衣裳(いしょう)には、明快な色調がそのまま現れている。

 この「山姥図」が三枚あったという話は、前述の高木正美氏が、弘化四(1847)年生れの厳父から聞かれたという話を、この大手町一丁目にあった富士屋に結びつけた次第である。

 宮島に「木更津浦之図」の絵馬を納めている司馬江漢も蘆雪同様、本川筋をのぼって広島を訪ねた画家である。さらに、蘆雪が大阪で毒殺されたといわれるいきさつなどは「がんす横丁」外のことになるので、次は二丁目を軒並みに訪ねるとしよう。

 この連載は、1953(昭和28)年1月から3月にかけて中国新聞夕刊に掲載したものです。旧漢字は新漢字とし、読みにくい箇所にルビを付けました。表現は原則として当時のままとしています。

(2018年7月1日中国新聞セレクト掲載)

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