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連載・特集

「がんす横丁」シリーズ がんす横丁 (五十六)大手町界隈(かいわい)(その2)㊤

文・薄田太郎 え・福井芳郎

 大手町二丁目の西側を北から軒並みに紹介すると、明治二十年前後の模様であるが、本通り横丁に面した角は、絨毯(じゅうたん)そのほか洋品卸商のわかさ屋、隣は藤井徳兵衛氏の両替屋である。

 この藤井氏の本宅は、新劇の父と言われる小山内薫氏の生れた家でもあって、この藤井家と小山内氏とのつながりについては先頃、藤井徳兵衛氏から新しくその詳細をうかがったので、そのあらましを綴(つづ)ってみよう。

 当時、広島衛戌(えいじゅ)病院長であった小山内建(たけし)氏は、二丁目の藤井氏の家の一部を借りていたもので、薫先生は明治十四年七月二十六日、この藤井氏の家で生れた。同年生れの藤井徳兵衛氏と共に、幼なき日をこの界隈で仲よく遊んだとのことである。

 先生一家はその後、藤井氏の宅を離れて大手町五丁目の料亭梅花桜(店主・福田貞助氏)の隣家に移転された。この梅花桜は、後の蔵内旅館となった。

 薫先生の令妹、岡田八千代さんが「家の裏には川があって水がキレイで、よくエビが取れたものだった。よく母が語るのを聞けば、私たちの家は川添のところにあったらしい」と言われるのは、五丁目の家の叙景らしい。

 筆者が前稿で二丁目の家の裏から元安川がよく見られたと書いたのは、二丁目の藤井氏の家と、五丁目の家とを混同して書いたことも、藤井徳兵衛氏の話で判然とした考証的結果を得た。

 また、薫先生が明治十八年二月、厳父建氏の死去後、広島を離れてから一度も広島訪問の機会がなかったように筆者は書いたが、藤井氏が多年持って居られるシェークスピア・バースディ・ブック(アメリカ版)の七月二十六日のページに、毛筆で「小山内薫」と達筆に書かれたサインがあるのを見せてもらった。

 このサインは、薫先生が新婚まもない夫人と共に明治三十七年、厳父建氏の二十年祭を五丁目の伊勢神宮で執行された時、これに列席した藤井徳兵衛氏が久しぶりに薫先生と会い、話のおりに親しくもらったサインと聞かされた(藤井氏の名士知人からのサイン募集は、このころすでに有名であった)。

 猿楽町で生れた児童文学者の鈴木三重吉氏、そして大手町二丁目で生れた小山内薫氏はともに、広島としては忘れられない人たちである。

 この連載は、1953(昭和28)年1月から3月にかけて中国新聞夕刊に掲載したものです。旧漢字は新漢字とし、読みにくい箇所にルビを付けました。表現は原則として当時のままとしています。

(2018年7月8日中国新聞セレクト掲載)

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