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連載・特集

「がんす横丁」シリーズ がんす横丁 (五十六)大手町界隈(かいわい)(その2)㊥

文・薄田太郎 え・福井芳郎

 この連載でかつて、小山内薫先生と広島生れの芸妓(げいこ)駒龍との結びつきを書いたが、藤井徳兵衛氏の話によると、駒龍は関東大震災直後、東京時代の妹分芸者小金が広島本券番で働いているのを訪ねてきたとのことである。

 藤井氏の薫先生の思い出話は尽きないが、大手町五丁目時代は次稿にゆずるとしよう。

 二丁目の藤井両替店の隣は八木時計店、芸備日日新聞社、杉岡桶(おけ)屋、林印判屋、三階建の見晴らし屋津村、さらにその隣は田部松太郎氏の味噌(みそ)商伊予屋、畜産会社の木村仙次郎氏、橋本延平氏、白根弁護士の宅、森田医院、鳥屋町角は紙商鳴代次郎氏の家であった。

 次に東側の軒並みは、南から三原屋小路の角が有村理髪店、高橋写真製版店などであるが、これは大正八、九年のことで、明治二十年前後は畳屋の蒲生常吉、風呂屋の大畑、その隣家は津村帽子店、保険代理店、野々垣写真屋。

 そこから奥まった家は、さくらの木に雪洞(ぼんぼり)をつって人を入れたかざりやの吉川旅館、旧家の山口周右衛門氏、煙草屋の藤井介七氏、長谷川東西堂、広島電信局(明治十二年五月に中島新町より移転してきた)。

 次は三井銀行広島支店(明治九年七月に両替店三井組を改称したもので、広島最初の銀行である)、水戸馬具屋、黒柳主計大尉の宅(この家は丁度(ちょうど)藤井徳兵衛氏の家の前にあたる地点である)、次いで丸山道具屋、上野印判屋の順であった。

 大正七、八年ごろ、西側の木村仙次郎氏宅の近くには菓子商むさし屋があった。小型の一口アンパンをこしらえていたが、これがなかなかの人気で、中学校の運動選手たちが練習中のオヤツにと、籐(とう)製のバスケットを持って自転車でこの店へ通うたもので、早稲田の万能選手と言われた浅岡信夫氏が帰省中、この店に座っていたことも思い出される。

 この二丁目には広島電信局や三井銀行があったことなど特筆すべきことがあるが、いま一つ、三丁目につながる三原屋小路のことも書き落してはならないと想(おも)う。塩屋町、大手町二丁目、鳥屋町を結んだ「小字」の名で、大手町二丁目、三丁目の間を東西に抜けた小路である。

 この連載は、1953(昭和28)年1月から3月にかけて中国新聞夕刊に掲載したものです。旧漢字は新漢字とし、読みにくい箇所にルビを付けました。表現は原則として当時のままとしています。

(2018年7月15日中国新聞セレクト掲載)

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