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連載・特集

「がんす横丁」シリーズ がんす横丁 (五十六)大手町界隈(かいわい)(その2)㊦

文・薄田太郎 え・福井芳郎

 三原屋は大手町三丁目角、後に子供公園になったところ、旧広島瓦斯(がす)株式会社あたりにあった広島藩の銀札を発行したところで、この屋号が小路の名になった。旧藩時代に紙幣や差紙が発行されたが、明和元(1764)年には五種の銀札が発行されている。

 この銀札は、明治四年の廃藩後もしばらく金融の御用を勤めたもので、五匁(もんめ)、一匁、五分、三分、二分の五種の銀札があった。貨幣価値は、二分が鳥目(真ん中が穴空き)の二十文で、五匁は五百文、一文は一厘の寛永通宝一枚の割合であった。

 そしてこの三原屋からは、専ら三分札が発行された。この三分札には槌(つち)の図のほかに三原屋小十郎、三原屋清兵衛の捺印(なついん)があって、今日でも昔の広島を懐かしむ人たちの手で保存されている。

 広島の方言に「可部に往(い)く」というのがあるが、これは子供がうたた寝をした時などに「もう可部に往った」と言う。この方言らしいものの起りは、可部から吉田町への道路の途中に「根の谷」があるので、その地名をもじって「寝の谷に往く」といわれ「寝てしまった」ということになるのである。

 この広島方言とは違うが、三原屋から発行した銀札についての言葉に「同じ三分なら海田から」というのがある。この言葉には、次の挿話がある。

 広島の東部方面のあるお百姓さんが、宮島詣を思いたって安芸郡の海田市に来て、宮島までの船賃を尋ねたところ、船頭は「銀三分」と答えた。この銀三分は三原屋発行の三分藩札一枚という意味で、このお百姓さんは「これから広島へ二里ばかりを歩いて往けば広島からの船賃は安いから費用が助かる」と、広島まで出かけた。そして、広島の本川端で宮島へ渡るのに船賃はいくらかと尋ねた。

 すると広島の船頭は「銀三分」と答えたので、このお百姓さんは腹を立てて「広島から三分は高い。同じ三分の船賃なら海田市から船に乗る」と海田市へ引き返したという話で、「同じ三分なら海田から」という言葉は、大手町二丁目近くにあった三原屋の銀札にからまる広島小咄(こばなし)の一駒である。

 この連載は、1953(昭和28)年1月から3月にかけて中国新聞夕刊に掲載したものです。旧漢字は新漢字とし、読みにくい箇所にルビを付けました。表現は原則として当時のままとしています。

(2018年7月22日中国新聞セレクト掲載)

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