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連載・特集

「がんす横丁」シリーズ がんす横丁 (五十七)大手町界隈(かいわい)(その3)㊤

文・薄田太郎 え・福井芳郎

 三丁目から四丁目まで、軒並みに大手町調を拾ってみる。

 まず三丁目の西側を北から振り出すと、鳥屋町に面して広島瓦斯(がす)電軌株式会社のビルがあった。現在大手町の小公園になっているが、原爆の被害であの建物は手のつけられない程に破壊されて、このビルが二階建であったか三階建であったか、それすら思い出せない。

 この緑色のビルは瓦斯会社時代、株主総会で猛烈なトラブルがあったことも昔話で、ガスマントルを取り替える車をひきながら、市中をチンチンとベルをたたいて回っていた相撲とり姿の男もいた。彼は松風という名の京都相撲で、笑った時の面差しは名寄岩そっくりであった。後に「おでんさん」と言われた小網町の住人松田常一さんとともに、あのころの名物男であった。

 瓦斯会社の創立は明治四十二年で、広島瓦斯電軌株式会社と改称したのは大正六年であった。

 以下、大正中期ごろの大手町通りの記憶をたどって軒並みのメモを紹介するが、隣は軍都第一の軍用旅館、吉川金蔵氏の吉川旅館があった。入口の石門に両方から鉄製のアーチがかかっていて、その中央に明治時代をしのばすような街灯があった。陸軍の特命検閲使も必ずこの旅館を本陣にした。門前は紅白のだんだら幕が張られ、旅館の前には門衛兵士のたまりも出来た。

 この旅館は軍人のほかに有名人の定宿でもあった。例のマダム・バタフライといわれた三浦環女史が伴奏者フランケッティとともに、寿座で帰朝独唱会を公演したときも、この旅館に泊って豪華な生活ぶりを見せたものである。

 そのころ三原屋小路にいた阿部幸次少年は(あのころは全くの少年であったですぞ)、親父(おやじ)さんの用事で吉川旅館に出かけて、庭園にいた蝶々夫人を見て「ワシもあのような歌手になろう」とハップンしたという。当時の環女史は、多数の音楽ファンに取り囲まれて女王の振舞いを見せていたので、そのたたずまいが、いたくこの少年をシゲキしたらしい。

 吉川旅館の隣は一番古い大手町界隈人の荒谷歯科院、島津置屋、数奇をこらした料理屋の旭亭、花屋旅館、その隣家は長沼鷺蔵氏の長沼旅館で後に長沼ホテルと改称、二階のベランダ風景も印象的であった。のちには八千代生命広島支店になったはずである。

 この連載は、1953(昭和28)年1月から3月にかけて中国新聞夕刊に掲載したものです。旧漢字は新漢字とし、読みにくい箇所にルビを付けました。表現は原則として当時のままとしています。

(2018年7月29日中国新聞セレクト掲載)

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