×

連載・特集

「がんす横丁」シリーズ がんす横丁 (五十七)大手町界隈(かいわい)(その3)㊥

文・薄田太郎 え・福井芳郎

 大手町三丁目をもう一度、三原屋小路に引き返すと、東側の一号は柿ようかんで知られた京屋、表通りの店には中国の骨とう品を扱っているのがあった。中国の陵園にあった石人像も立っていたようで、鳥居清長あたりの浮世絵も二、三枚飾ってあった。

 八幡屋の洗たく店もあって、その隣には奥まった小路の一角に大島写真館があり、小間物店や理髪店のあたりに、昭和初期、映画の鈴木伝明や横尾泥海男(でかお)などがあばれた「カフェー夢路」もあった。

 中川豆腐屋、そして人力車の帳場もならんでいた。そして三丁目を左に曲って尾道町へ抜けるあたりをキジヤ小路と言った。

 この小路を限界に、四丁目の西側の最初の家は本田屋の分家で、広島牡蠣(かき)や広島菜を扱った店で、のし柿や「磯の花」の名も忘れられない。隣りは山根酒屋で、大格子のあった酒屋風景も懐しい。

 太田旅館の前身は料理屋福定で、あのころ西園寺公や伊藤博文、寺内大将あたりが顔を見せたところで、今日でも古老たちが、当時の艶聞史を口にしている。

 次は日清生命、そしてかしわ料理の松月庵、農工銀行の隣は車帳場で、その隣りは粋な竹づくりの垣があった栄亭だった。この家の川妻柳三君は広商卒業後、早稲田の庭球部に入り、安部民雄選手と組んでマニラの極東オリンピック大会に派遣されて、ダブルスの選手権を獲得した。

 次は、当時としては豪華な建物であった不動貯蓄銀行、赤い矢印の渡辺ドライクリーニング、歯科の辰口医院があって、隣りは四丁目の交番所であった。

 この四丁目と五丁目の十字路角から、東へ抜けると尾道町になるが、この小路を桝屋(ますや)小路と言った。桝屋の由来について判然としないのは、キジヤ同様である。

 車角は森紙店で、尾道町寄りには原田ラムネ店があった。森紙店の隣りは山本クツ店、その隣は五階に時計台を取りつけた日本火災で、この広島支店は明治二十五年四月の創設である。

 表通りから五階まで突き抜けた階段があって、どこかに火事があると、だれでもよいこの階段を駆け登って、時計台にある半鐘をたたくと、そのたびごとに金五十銭のお礼金が会社側から出たという、珍しい私設火の見やぐらで、まさに広島最初の火災保険会社であった。

 この連載は、1953(昭和28)年1月から3月にかけて中国新聞夕刊に掲載したものです。旧漢字は新漢字とし、読みにくい箇所にルビを付けました。表現は原則として当時のままとしています。

(2018年8月5日中国新聞セレクト掲載)

年別アーカイブ