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連載・特集

「がんす横丁」シリーズ がんす横丁 (五十七)大手町界隈(かいわい)(その3)㊦

文・薄田太郎 え・福井芳郎

 日本火災の時計台は原爆前まであったように思うが、西側に出来た赤レンガ造りの農工銀行や不動銀行などの建物とともに、まことに面白い対照を見せた大手町風景であった。あのころ、この界隈をスイスイと飛んでいたり、高い電柱線にとまった燕(つばめ)の生態にも、大手町的な特性がうかがえた。

 隣は魚仕出しの「丸為」で、次は玄関脇に木犀(もくせい)が植えてあった中国新聞社で、大正十五年に上流川町に新社屋が出来るまで、四十年近い社史はこの四丁目でつくられた。

 北隣りは朝日新聞の支局で、大正十三年、第十回全国中等野球大会で優勝した広島商業の新装の甲子園球場での活躍を知るために、野球ファンが支局の前につめかけた。

 なにしろラジオのなかった時代で、一回ごとに長距離電話でその情報が入ってくる。梶上選手が安打で出たというニュースが入っても、その結果を知るまでにはかなり時間がかかった。熱心なファンは、街頭に立ったままカタズをのんで次の情報を待ったもので、球場からそのままラジオ放送がされる現在を想(おも)うと感慨深いものがある。

 ラジオ放送といえば、FKが放送をはじめたのは昭和三年七月で、隣りの果物商本田屋の二階で鉱石受信機の組立講習会が開かれたのも忘れられない。本田屋の二階には五十畳ぐらいの広間があって、いろいろな会合が行われた。

 中国新聞社主催の五月信子を中心にした近代座の座談会や、俳人碧梧桐を囲んだ座談会もこの二階で行われた。あのころの本田屋には広島出身の運動選手や有名人が集った。アイスクリームを前に置いた織田幹雄、沖田芳夫両君たちの姿も、しばしば見かけたものだ。

 店主の千吉サンの運動選手ばかりのサイン収集も有名で、亡くなられた秩父宮様が昭和四年、野砲五大隊に来られた時には、五十冊もあるサインブックを持った同氏が羽織袴(はかま)で宮様の宿に同候したものである。原爆生き残りの千吉サンは、相も変らずの広島弁丸出しで、民生委員や児童委員として昔に変らぬ大手町人ぶりを見せているのも懐しい。

 この連載は、1953(昭和28)年1月から3月にかけて中国新聞夕刊に掲載したものです。旧漢字は新漢字とし、読みにくい箇所にルビを付けました。表現は原則として当時のままとしています。

(2018年8月19日中国新聞セレクト掲載)

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