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連載・特集

「がんす横丁」シリーズ がんす横丁 (五十八)大手町界隈(かいわい)(その4)㊥

文・薄田太郎 え・福井芳郎

 引き続き、小山内薫先生の厳父が大手町五丁目の家で亡くなった時の様子について、岡田八千代さんの話を紹介する。

 「父が医者であるから、集まっていた人達のなかにも医者が多かったので、手当におろそかはなかったけれども、そのまま床の中へ運ばれた父は、もう重態で口を利くことを許されなかった。

 母は赤子だった私を連れて、これもお別れの芝居見物に招かれていた。急用が出来たから直(す)ぐ帰れと言う使いを受けたが、招待の席で直ぐ立つワケにもゆかなかった。二度目の使いを受けてただごとでないと思って俥(くるま)に乗って帰る途中、また三度目の迎いに逢った。しかし家へ帰ったとき、父はまだ息は通っていたが、言葉を交すことは許されなかった。

 父は帯に巻いた時計の鎖さえも取ることが出来なかった。一言なりとも後々のことが聞きたかったが、口を利くことが出来なかったため、遂にそのまま何事をも聞くことが出来ずに別れたと母は言って居た」

 八千代さんと同じような話は、藤井徳兵衛氏からも聞いた。更(さら)に藤井氏には、当時薫先生のお母さんの妹が広島にいたことも話してもらったが、小山内先生一家の人たちは、よくよく広島にゆかりがあったようである。

 すなわち、先生のお母さんは江戸の旗本小栗信の九人兄妹の長女であった。小栗信は小栗上野介の分家で、お母さんのすぐ下の妹は軍医藤田嗣章に嫁いで、フランスに渡った洋画家藤田嗣治氏はその末子であった。

 そしてその次の妹は、軍医渡辺泰造氏に嫁いで広島に住んでいた。渡辺泰造氏は下中町にあった博愛病院の病院長を勤め、上流川町の英和女学院の前にあった郵便局の隣りの家に住んでいた。そして渡辺氏の令息は、広島市の都市計画の仕事を担当したこともあったとのことで、小山内氏と広島とのつながりはかくも深いものであった。

 なお薫先生は厳父の二十年祭を五丁目の伊勢神宮支所で行ったのち、今一度、広島を訪ねたと藤井氏は語られたが、筆者が先生と広島駅のホームで会ったのはもちろんその後のことである。

 この連載は、1953(昭和28)年1月から3月にかけて中国新聞夕刊に掲載したものです。旧漢字は新漢字とし、読みにくい箇所にルビを付けました。表現は原則として当時のままとしています。

(2018年9月2日中国新聞セレクト掲載)

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