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連載・特集

「がんす横丁」シリーズ がんす横丁 (五十八)大手町界隈(かいわい)(その4)㊦

文・薄田太郎 え・福井芳郎

 小山内薫先生の厳父の死について、岡田八千代さんの話の中にある「私達の家からは垣一重隣り」というのは梅花楼のことで、八千代さんがお母さんと「お別れの芝居見物に招かれた」という小屋は、どうやら畳屋町の寿座らしい。

 明治十年の広島地図を見ると、播磨屋町に芝居小屋が建ててあったようで(シバイという片仮名の印がある)、この小屋を畳屋町に移転したのは佐々木源蔵という人で、旧名を笹置座と言った。それが明治十八年ごろには寿座と改称されていた。

 ところで、小山内氏の隣は旅館玉明館、三原家染料店、そして中西婦人科医院、後に中道耳鼻咽喉医院、そして東側は伊勢神宮支所、美村寒月堂(菓子)、桝屋小路角は旭爪薬局であった。物識(し)り粋人として知られた旭爪脩一氏も、高須へ移るまではこの家に住んでいた。

 旭爪氏は「広島で最初という名のつくもの」を一応みな手がけた通人で、オートバイ、カメラ、レコード、ラジオ、麻雀(マージャン)、熱帯魚とならべると、まさにオドロキである。邦薬でも長唄、三味線、能楽の太鼓と優秀な技能を身につけて、座談の妙手としても広島切っての話の泉的レギュラー・メンバーであった。たまたま持参の「ヨーヨー」をみると、これがフランス製のヨーヨーであった。ヨーヨー一つにもかくまでこった同氏であった。

 桝屋小路には、広島漆器の四代目池田一国斎も住んでいて、その作品がショウ・ウィンドに陳列されていたのも、先ごろのことのように思われる。三十年も前にみかけた四代目一国斎氏は、無口な名人肌の人で、毎年五月の広島県美展で同氏の作品を見たが、白漆紫漆の製法を発明した四代目だけに、その斬新なデザインによる作品は中央工芸界でも話題になったほどである。

 この連載は、1953(昭和28)年1月から3月にかけて中国新聞夕刊に掲載したものです。旧漢字は新漢字とし、読みにくい箇所にルビを付けました。表現は原則として当時のままとしています。

(2018年9月9日中国新聞セレクト掲載)

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