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連載・特集

「がんす横丁」シリーズ がんす横丁 (五十九)大手町界隈(かいわい)(その5)㊤

文・薄田太郎 え・福井芳郎

 大手町通りは金比羅さんのところで南へ曲って、ここから七丁目、八丁目、そして左へ曲って鷹野橋まで九丁目の足を伸ばしている。金比羅さんの手前ではるか大手門のあたりを見ると、砲弾を帽子にしたような高い記念碑が見られた。六丁目も一部が百メートル道路になって、これといったものは残っていないので、七丁目から記憶をたどるとしよう。

 金比羅さんの門柱に「明治四十四年七月信徒中」と刻まれている文字も、原爆が残した最後のモノである。この門柱に対立して同じような二本の石柱があったのも思い出されるが、この袋小路の右側には、中国新聞社の当時の田中営業部長の自宅もあった。

 東側に真宗本願寺派隆向寺、西側には禅宗の普門寺があって、門前の三段構えの石塔も極めて印象的であったが、この石塔も原爆で粉砕されて台石のみが残っているのも、あの日の朝の物すごさを語っている。

 同じ西側に並んだ日蓮宗の長遠寺には、猿楽町生れの文豪鈴木三重吉氏の墓がある。三重吉先生は児童雑誌「赤い鳥」の編集者として、また詩情豊かな小説家として、近代日本文学史上に大きな功績を残した文豪で、昨年六月二十七日、長遠寺で先生の十七回忌が行われたのを機会に、鈴木三重吉祭が盛大に開かれたのも、ツイ先ごろのような気がする。大手町二丁目で生れた小山内薫氏と共に、広島人が忘れてはならない三重吉先生であった。

 先生が子供のころ西練兵場に遊んでいると、意地の悪い兵隊が現れて、よく先生を泣かしたとのことで、先生はその意地悪さに発奮されたという話もあって、子供たちのためにたのしい夢をと、青い鳥ならぬ「赤い鳥」を月々発行された。その先生も、今は七丁目の墓地に安らかに眠られている。

 この七丁目の出身者には、広島から初めて出た総理大臣加藤友三郎氏があったことも忘れられない。時代の波は同氏のことを忘却の彼方(かなた)に押し流しているが、生粋の広島人として、今なお筆者たちの記憶には加藤元帥のことがありありと残っている。

 同氏は大正十一年の夏、政友会内閣の後を受けて総理大臣となり、大正十二年八月、関東大震災の直前に病没されたものである。

 あのころ、長遠寺の裏には藪(やぶ)があり、近くには下水の溝もあって、このあたりは割場小路といわれた。

 ここに住んでいた古老の述懐によると「長遠寺の朝の勤行の鐘が、ヤブを越して聞えて来ました。目がさめると格子の障子にバサバサと風にゆれるササの影が映って、子供心にこのヤブの動く影が面白く、床の中から暫(しばら)く見ていました。すると、はるかの兵営からラッパの調練の響きが流れて来たもので、私はこの響きを目覚めの音楽と思って聞いたものです」。

 この連載は、1953(昭和28)年1月から3月にかけて中国新聞夕刊に掲載したものです。旧漢字は新漢字とし、読みにくい箇所にルビを付けました。表現は原則として当時のままとしています。

(2018年9月16日中国新聞セレクト掲載)

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