×

連載・特集

「がんす横丁」シリーズ がんす横丁 (五十九)大手町界隈(かいわい)(その5)㊦

文・薄田太郎 え・福井芳郎

 長遠寺近くの古老が語る、朝早くから兵営のラッパの音が七丁目近くまで聞えて来たという話は、流石(さすが)に昔の広島を知った人の実感であろうと思う。今やラッパの響きは、カープの試合にのみ聞かれるとは、世の中も変ったもので、まさにラッパへの広島人のノスタルジアである。

 裏通りの藪(やぶ)風景も、そのころ市内のあちこちで見られたもので、広島が都市らしくなって来たのは、これらの藪が姿を消してからのこと。時代はやはり明治三十年ごろであったかも知れない。

 この七丁目で忘れてならないものに、カン詰の製造がある。広島で初めてカン詰業を起したのは明治十三年十月、七丁目に住んでいた脇隆景氏である。

 同氏は東京から製造器を手に入れてこの仕事をはじめたが、事業不振で、一時は損失を埋めるために祖先伝来の家産全部を手離して、この仕事を続けた。結果、ようやく明治三十年ごろにその効果が現れて、市の各所でのこの仕事をはじめたために、広島カン詰の名は全国的に知られるようになった。広島の産業に貢献したカン詰が、七丁目の脇隆景氏によってはじめられたことを書留めておく。

 次に、広島最初の電気事業として広島電灯会社が明治二十七年十月、大手町七丁目に設立されて、初めて電灯がつけられたことも忘れられない。あの黒塗りの大煙突も広島としては、最初のものであった。

 いわゆる火力発電所が出来たワケで、夕方の発電時刻には物すごい響きをたてて噴出する白い水蒸気が、表門の外からもよく見えたとのこと。煙突の見える場所にいた七丁目人は、今でも懐かしい思い出だといっている。

 また、発電所裏の一帯は元安川の川岸で、陸揚げされた石炭の山があちこちに見られたもので、この発電所をかこんだ雑然たる工場風景の中に、長遠寺近くの藪と同じような藪が河(かわ)ブチに長く続いて、城下町の名残りを見せていた。

 この界隈の子供たちは、この竹藪で戦争ゴッコの明け暮れをおくった。大正七、八年ごろは広島の中学生野球がサカンになりはじめて、七丁目の表通りにあった森川や弘法という運動具店には若い選手たちがつめかけていたのを思い出す。

 各中学校の野球ユニフォームがショウ・ウィンドウに飾られてあった。店の中のミシン台の上には黒や赤の羅紗(らしゃ)でつくられた英文字のネーム・プレートが積んであって、そのころ流行のグレイや赤色のアンダーシャツも陳列されて、若い中学生たちの憧れともなっていた。

 金比羅さんに並んだ「大寺屋」というぜんざい屋は、中学生のたまり場所で、その二階の大広間でぜんざいという名のつくクラス会がしばしば行われた。

 この連載は、1953(昭和28)年1月から3月にかけて中国新聞夕刊に掲載したものです。旧漢字は新漢字とし、読みにくい箇所にルビを付けました。表現は原則として当時のままとしています。

(2018年9月23日中国新聞セレクト掲載)

年別アーカイブ