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連載・特集

「がんす横丁」シリーズ がんす横丁 (六十)大手町界隈(かいわい)(その6)㊦

文・薄田太郎 え・福井芳郎

 鬼六郎と言われた剣豪細呑空には、次のような挿話がある。そのころ、広島藩と岩国吉川藩の武士の間にトラブルがあった。いきさつを知らない呑空は唯(ただ)一人、宮島へ参詣した。すると彼を待ち構えた吉川藩の武士三十余名が、太刀を抜き連れて呑空に斬りかかった。すると彼は、持っていた雨ガサで一味をたたき伏せたという話である。

 これは昭和十五年のある読物雑誌の中に「破れ傘花嫁」として、呑空を主人公として書かれたものである。

 呑空の父宗関はもともと阿波の人で、全国を遊歴して広島藩に抱えられた剣道の達人。有名な「心伝開教論」が残されている。薬研堀の禅昌寺にある墓には細宗関、呑空、鉄腸斎の三代の名が刻まれている。

 なお、この細の小路には、大正の中ごろからすでに広島の柔道家として知られた真貫流松田魁輔先生、松田栄太郎八段が住んでいたことも忘れてはならない。

 大手町八丁目には電気事業界に活躍した山口吾一氏の宅もあった。この家は広島藩士城岩之進氏の旧宅で、当時吉島にいた頼山陽先生が、渡船に乗ってこの邸宅へ遊びに来たと言われる。現在八丁目は四十メートル道路の出現で、新明治橋も架けられて町の様相も一変し、当時から住んでいた人も少くなった。八丁目角の薬局の三原彦三郎氏あたりが、昔の界隈を語るがんす人であるかも知れない。

 水主町へ渡る明治橋は、八丁目の三原清兵衛、皆川多八、藤井重次郎、山県平三、吉田嘉吉の五氏が、明治十九年八月、県の許可で架けた橋で、広島市の管理になったのは明治二十九年八月である。

 九丁目になると、昭和五年ごろ南側の一角に、映画館別天座を中心にした盛り場が出来た。この別天座で上映された映画には、百万ドル映画といわれた「地獄の天使」がある。トーキー映画の初期「つばさ」「暁の偵察」などとともに好評を博した航空映画で、主演女優ジーン・ハーロウのことも忘れられない。ピンポン・ホールも二、三軒出来て、一時はなかなかの人気であった。

 九丁目には広商の名遊撃手と言われ、弱冠十八歳で亡くなった島田源三君がいた。阪急の浜崎真二監督やカープの石本秀一監督とともに、大正六年の全国中等学校野球鳴尾大会にも出場した初期広島野球界の花形であった。

 この連載は、1953(昭和28)年1月から3月にかけて中国新聞夕刊に掲載したものです。旧漢字は新漢字とし、読みにくい箇所にルビを付けました。表現は原則として当時のままとしています。

(2018年10月14日中国新聞セレクト掲載)

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