×

連載・特集

「がんす横丁」シリーズ がんす横丁 (六十一)大手町界隈(かいわい)(その7)㊤

文・薄田太郎 え・福井芳郎

 大手町七丁目の本逕寺(ほんきょうじ)の前を通ると、西塔川にかけられた真菰(まこも)橋があった。この橋は毛利氏築城以来のもので土橋であった。

 明治三十年ごろのこの界隈の叙景であるが、南には鷹野橋、北には国泰寺の大樟(くす)が見え、その下に、屋根のあった珍しい西塔橋も見えた。そしてこの西塔川両岸の土手はいわゆる緑地帯で、この土手には手入れのよくとどいた松が並んでいた。川の水はキレイではなかったが、土手の景色は美しかったとのことで、近くには美しい庭の春和園もあった。

 これは電車がこの道を走るようになった大正元年十一月以前の話で、真菰橋は明治四十四年九月、西塔川の埋立と同時に姿を消してしまった。

 ところで春和園であるが、これが広島市公会堂の前身である。天保十五(1844)年、藩の執政今中大学が、藩主からこの春和園をもらって子孫に伝え、後に明治三十九年まで料亭として営業が続けられた。それが間もなく廃業して、翌四十年、市の有志たちが出資して株式会社広島公会堂を建てることになり、園内にあった建物の大観楼を和洋折ちゅうのモノに改築した。四十三年四月から広島市の管理に移った。

 建物は貧弱だといわれながらも、原爆の日まで約四十年間、広島市公会堂として、あらゆる会合に使用された。二階の大広間で講演会、本舞台を造っての能楽大会、学校関係の音楽会などがさかんに行われたが、大正中期から昭和初期にかけては琵琶大会、尺八箏曲の会、詩吟大会などが次から次へと開かれて、広島人には懐しい思い出を残している。

 それらのうちで大正九年の秋、この会場で行われた尺八演奏会は、今もって昔話のハイライトになっている。それは宗家の川瀬順輔、川瀬里子夫妻を招へいしての琴古流演奏会である。

 今日では演奏会といえば新聞社、放送局、教育委員会などが後援をするのは当然とされているが、そのころには新聞社の後援はなかった。この演奏会を最初に、中国新聞社が後援することになった。なにしろ琴古流宗家の広島初公演というので、後援側の力の入れ方も大変であった。

 この連載は、1953(昭和28)年1月から3月にかけて中国新聞夕刊に掲載したものです。旧漢字は新漢字とし、読みにくい箇所にルビを付けました。表現は原則として当時のままとしています。

(2018年10月21日中国新聞セレクト掲載)

年別アーカイブ