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連載・特集

「がんす横丁」シリーズ がんす横丁 (六十一)大手町界隈(かいわい)(その7)㊥

文・薄田太郎 え・福井芳郎

 琴古流宗家の広島初公演では、すでに公会堂の建物も古かったので、せいぜい五百人限りを入場させるという条件で会場を貸したが、当日になり次から次へと集まった聴衆は、会場外にあふれて電車道まで人の列が続いた。

 そこで、主催の琴古流同好者の人たちは入口の戸を締切った。ところがなんとかして入場しようとする連中は、築山や池のある庭園の裏門を乗り越えて会場に殺到した。

 この騒ぎに、一時は電車数台が立往生するという盛況さ。公会堂側では西署に連絡して警官の派遣を要請したため、七、八名の警官が現場にかけつけて整理に当ったが、なかなか騒ぎは納まりそうもない。そこへ出演の宗家ほか一名が遅れて現れ、門のトビラを開いたのを機会に、観衆がなだれ込んだ。

 その数およそ千七、八百名で、あの二階の広間や廊下は、身動きも出来ないままの危険状態であった。三時間にわたる演奏を無事に終えて初めて、主催側や公会堂の人たちが胸をなで下したという。

 当夜の宗家の曲目は「御山獅子(みやまじし)」「ささの露」で、とくに三弦の川瀬里子夫人の演奏はきわめて印象的であった。そして、賛助出演には地元の各検校、各勾当(こうとう)が当って、それまでにない盛大な演奏会であった。

 演奏会場の整理に警官が派遣されたり、聴衆の列が電車を立往生させたのは、市公会堂始まって以来の出来ごとで、いかに広島人が中央の演奏家に興味を感じていたかがうかがえる。

 その後、大阪から宗家中尾都山氏を迎えての都山流の演奏会、上田芳憧氏を迎えての上田流の演奏会などが矢つぎばやに開催されて、広島の琴曲界は黄金時代を現出した。琴、三弦の師匠が、紫色や薄水色の紋服を着ての大時代風の演奏も忘れられない。

 こうした演奏会は、この会場で朝八時から夜十一時過ぎまで行われたもので、演奏曲目も百番近くもあった。とにかくお客さんは赤毛センを敷いて重箱を構え、一日中演奏を聴くような仕組みになってはいたが、夕方あたりから疲れが出て、さすがに何を聴いているのか全然判(わか)らなかった。

 それでも会が終るまで、観衆は座を立たなかった。ゆうちょうといえばゆうちょうであるが、出演者に直接関係のある人たちの真シな態度は、会が終るまで崩れなかった。あの時代のあの人たちの心の温さが懐しまれる。

 この連載は、1953(昭和28)年1月から3月にかけて中国新聞夕刊に掲載したものです。旧漢字は新漢字とし、読みにくい箇所にルビを付けました。表現は原則として当時のままとしています。

(2018年10月28日中国新聞セレクト掲載)

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