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連載・特集

「がんす横丁」シリーズ がんす横丁 (六十一)大手町界隈(かいわい)(その7)㊦

文・薄田太郎 え・福井芳郎

 大正中期から昭和初期にかけて、この広島市公会堂で活躍した広島人たちをしのんでみよう。琴古流では部谷志郎、根石剛堂、都山流の中村晃山、岡本葉山、志治鯉山、荒木千山、上田完山、永山一角、紙谷白山、上田流の田尾竹憧、塚本昇憧、光永酔風、琴、三弦では大検校青木敏夫、大勾当藤井リエ、楠田福三、梶田光男、中村梅子、大石藤枝、玉井夏子、神笠勾当、入江富士子、松尾多美子の諸氏たちである。

 また琵琶界では、中央で活躍していた足立芦光、豊田旭穣を迎えての大会もこの会場で行われて、各先生を中心にしての琵琶大会がしばしば開かれたが、いずれもが満員の盛況をつづけた。一人で一曲タップリ二十分も弾奏するので、大体の演奏会は四、五時間もかかった。観衆の中から「チェストッ」という鹿児島特有のかけ声が聞かれたのも、琵琶会風景の一コマであった。

 懐しい思い出のうち、サツマの田中断腸、山田断雲、筑前の前田旭心、松本旭滉、大橋旭鳳たちの演奏は、さすがに立派であった。変り種では公会堂の隣りに住んでいた千葉富子は、箏曲、琵琶両界の花形であった。後に新日本音楽の吉田晴風氏夫妻とアメリカへの演奏旅行を行い、さらに千葉早智子として映画界に転じたことは、広島の古い映画ファンは御承知のとおりである。

 公会堂の南隣りには、丸太の柵をめぐらせた広島市女子高等小学校があった。明治十九年四月の創立で、男子の東高等小学校(南竹屋町)、西高等小学校(広瀬町)とともに、そのかみの広島人には忘れられない高等小学校であった。

 その女子高等小学校のあとに、広島市立広島高等女学校が出来たのは大正十年四月で、市女の恒例の音楽会も公会堂で行われたように想(おも)う。校長の今堀友市氏や音楽を担当した沓木義之先生、またこの音楽会に呉海軍軍楽隊を指揮して参加した河合太郎氏たちのことも想い出される。

 昭和三年に市女の跡には市庁舎が出来あがり、原爆後は公会堂跡に市警察の庁舎が出来あがり、鷹野橋跡にはりっぱな大火見やぐらが出来あがるなど、「がんす横丁」は日増しに近代化されている。

 鷹野橋と言えば、近くの国泰寺新開地に、ポツンと屋根の上に奇妙なやぐらを取りつけた洋館が姿をみせた。予報旗がへんぽんとはためいた風景を見たお百姓さんが、畑仕事の手をやすめて「どひょうしもない旗をあげとりますのう」と、山高帽子に袴(はかま)のイデタチで通うていった若い測候所員を腐らせたもので、その広島測候所ができたのは明治二十五年十二月三十日であった。

 この連載は、1953(昭和28)年1月から3月にかけて中国新聞夕刊に掲載したものです。旧漢字は新漢字とし、読みにくい箇所にルビを付けました。表現は原則として当時のままとしています。

(2018年11月11日中国新聞セレクト掲載)

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