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連載・特集

「がんす横丁」シリーズ がんす横丁 (六十二)あとがき(その1)㊤

文・薄田太郎 え・福井芳郎

 「がんす横丁」も一応六十回を目当てにして書くつもりで筆を起したが、どうにも横丁小路ばかりをさまよい歩いて、うまく書けなかったことをお詫びする。

 身体の不調で、実のところ「大手町界隈(かいわい)」あたりで、われながらもたついたような気がするので、ここしばらく資料の整備をやらせてもらい、改めて本通りから西部一帯を続編で綴(つづ)ってみたいと思う。

 それにつけても、読者諸氏から好意あるお便りと多数の資料をいただいたことを感謝する。時には、諸氏の御好意にあまえて、そのままの資料を使わせてもらったことをお断りしておく。ここでさらに諸氏から寄せられた資料によって筆者の思い違いを訂正したり、こぼれ話を綴って「あとがき」としたい。

 まず「(二十六)旧東練兵場」の稿であるが、筆者が見た坂本寿一氏の飛行機について、(1953年の当初連載時のサブタイトルに)「広島で初めて飛んで初めて落ちた飛行機の話」と記したが、その後、ある友人の口から別の実見談を聞かされた。坂本氏が広島で飛ぶ前に、奈良原氏の鳳(おおとり)号が大正元年十月、東練兵場を西から東へ一直線に低く飛んだという。その後、昭和二十七年十月二十六日付本紙に掲載された佐伯嘉一氏の「日本最初の同乗飛行記」を読んで、当時の全貌を知ることが出来た。

 広島で最初に飛んだ飛行機は鳳号であるから、坂本氏の場合は二度目になるワケで、あのサブタイトルは「広島で初めて落ちた飛行機の話」に改めなくてはならない。もっとも鳳号の場合でも、次のような実見談があるので「広島で初めて飛んで初めて落ちた飛行機」は、どうやら鳳号になるようである。

 というのは、鳳号の公開飛行は大正元年十月二十九日であるが、実はその前日の試験飛行で、同機は着陸がうまくゆかず、木製のプロペラが地上と衝突して、ひびを入れたという。

 そこでこの飛行大会を主催した大手町一丁目の鳥飼繁三郎氏は、こわれたプロペラを見本にして近くの大工さんを督励、一晩がかりでプロペラをこしらえて公開飛行に間に合わせたが、飛行機の心臓といわれるプロペラを一晩でつくらせた鳥飼氏の心臓も相当なものであった。

 この連載は、1953(昭和28)年1月から3月にかけて中国新聞夕刊に掲載したものです。旧漢字は新漢字とし、読みにくい箇所にルビを付けました。表現は原則として当時のままとしています。

(2018年11月28日中国新聞セレクト掲載)

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