×

連載・特集

「がんす横丁」シリーズ がんす横丁 (六十二)あとがき(その1)㊥

文・薄田太郎 え・福井芳郎

 木製のプロペラと言えば、天才児と呼ばれた山県豊太郎君が「恵美号」に取りつけていたプロペラも、同君の墜落死と同時に破損した。同君の盛大な葬儀には、そのこわれたプロペラを持った友人が行列の先頭を切って、沿道に並んだ広島人の涙をそそったものである。原爆まで慈仙寺の壁に取りつけられたこのプロペラは、山県君の短い一生を物語った記念品であったことを思い出す。

 次に、広島音楽界の長老渡辺弥蔵氏から寄せられた鳳(おおとり)号の公開飛行の印象記を借用しよう。

    ◇

 東練兵場で飛行機を見せ、また飛んで見せるというので、師範生全部に一人二十銭(当時としては大金でした)あてを出して、東練兵場に出かけました。ところが、あの広い練兵場に高さ一間あまりの板囲いが出来て、騎兵隊前のあたりに木戸口がこしらえられて、見料を一人一人取り立てていました。飛行機については、翼そして胴体などの説明があったが、なかなか飛行機が飛んで見せない。時間を惜しむ生徒たちが、まだですかまだですかと騒ぎ立てるのをなだめているうちに、やがて静々と飛行機は西の方東照宮の前に引っ張ってゆかれた。それッ飛ぶぞと待っていると、飛ぶには飛んだが地上十間くらいの高さで、東の方、尾長小学校前のあたりに着陸しました。今度は機首を立て直して西の方にブーンと飛び出しましたが、その高さは前よりも低く、地上すれすれぐらいで飛んだのはよいが、運悪く東照宮前あたりの柿の木に引ッかけて、ついに機体をこわしました。搭乗者は無事でした。それを口の悪いのが「バッタヒコーキ」と言いましたが、それにつけても六尺板であの広大な東練兵場をおっとり囲んだ知恵の深さもさることながら、二葉山の中腹に登ってこの光景を眺めていた黒山のような人々を想(おも)い出します。

 この連載は、1953(昭和28)年1月から3月にかけて中国新聞夕刊に掲載したものです。旧漢字は新漢字とし、読みにくい箇所にルビを付けました。表現は原則として当時のままとしています。

(2018年11月25日中国新聞セレクト掲載)

年別アーカイブ