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連載・特集

「がんす横丁」シリーズ がんす横丁 (六十二)あとがき(その1)㊦

文・薄田太郎 え・福井芳郎

 筆者に寄せられた渡辺弥蔵氏の印象記によっても、どうやら「広島で初めて飛んで初めて落ちた飛行機」は鳳(おおとり)号になるようである(もっとも、落ちたと言っても柿の木に引ッかかった飛行機であった)。

 なお、鳳号の後に現れた飛行士坂本寿一氏は山口県玖珂郡の出身で、大須賀町の屋根にあの飛行機が擱座(かくざ)したときに係りの者がかけつけると、本人は悠然と屋根から降りて大須賀町を歩いていたという。

 屋根から人間一人が降りてくるのになかなか手間どるのに、坂本飛行士は無造作に飛行機を降りて、さらに屋根を降りて大須賀町を歩いたワケで、しょせん心臓の弱い者には真似(まね)のできないことであった。

 なお、佐伯卓造氏が伊藤音二郎飛行士を招へいして、元安川口の県立工業高校の前あたりで水上飛行機を飛ばしたのは、その後のこと。昭和十一年十月、竹内飛行士が宮島沿線の井の口館を本拠にして、広島上空一周の遊覧飛行をやったことも忘れられない。

 宮島線十分五円、広島線二十分十円、岩国線二十分十円という遊覧飛行料もさることながら、この遊覧飛行を企画した宮島航空研究所の趣意書も立派であった。

 「民間飛行機は陸海軍機のように戦争を目的といたしませんから、天候などを無視して無理な飛び方を致しません。ですから飛行機の進歩完成せる今日では、飛行士の腕さえたしかであれば民間機は絶対に安全だといえます」

 この名文、民間飛行機は戦争を目的といたしませんから―には感慨無量なるものがある。ところが、広島上空を遊覧飛行中のある民間飛行機が、このころ比治山下の県師範学校の運動場に墜落して死者一名を出した事もあった。

 ともあれ、「広島と飛行機」のこぼれ話はこのあたりで終りたい。

 この連載は、1953(昭和28)年1月から3月にかけて中国新聞夕刊に掲載したものです。旧漢字は新漢字とし、読みにくい箇所にルビを付けました。表現は原則として当時のままとしています。

(2018年12月2日中国新聞セレクト掲載)

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