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連載・特集

「がんす横丁」シリーズ がんす横丁 (六十三)あとがき(その2)㊤

文・薄田太郎 え・福井芳郎

 京橋川の御供船(おとぼん船)風景もなかなかに忘れられないことを書いたが(連載第二十九回)、その後、この浮城のような船の美しさを懐しむ、ある古老の訪問をうけた。

 この広島人は、船の両側を包んだあの水色の垂れ幕や、船の中心部に建てられた破風づくりのやぐら、その周囲につり下げられた宮島さんの定紋を染め抜いた提灯(ちょうちん)、船の四隅に立てられた金糸、銀糸でつづられた昇り龍、降り龍の幟、色とりどりの大きな吹き流しで飾られた、あの夢みるようなおとぼん船をいま一度復元してもらいたい、という。

 また、あるがんす人は、あの大きな牛若丸と弁慶とがたたかっている五条橋の押絵、すなわちあの金糸、銀糸で縫いとられた船の艫(とも)飾りをいま一度見たいが、恐らくは原爆で焼けてしまったでしょうと、かつてのケンランたるおとぼん船の郷愁を一時間ばかり話して帰った。

 すると数日後、東部のある知人から「京橋町のお供船の押絵を持っている人がいますよ。一度見せてもらいなさい。あんたは二畳敷ぐらいの押絵だと書いていましたが、現物は六畳敷、あるいは八畳敷もあるような大きなものです。やはり金糸、銀糸の美しいものですが、惜しいことに弁慶だけの押絵です」といってくれた。

 そしてこの押絵の持主は、これがお供船の艫飾りとは知らないらしいということを聞いたが、原爆にもめげず、このお供船の飾りの一部が現存しているということは奇跡のような気がする。残っているのは弁慶だけの押絵というが、これは艫飾りが半分に切断されたものと想(おも)う。

 そして残り半分の牛若丸は、五条橋からどこかに飛んだものらしい。弁慶の押絵の裏には、京橋町の縄屋(保田家)の文字も見られるというので、これは筆者たちが子供時代に京橋川で見た、京橋町から出たお供船のキモノの名残りであったと思う。

 また、別の後日物語であるが、東の京橋川以上に盛んであった本川のお供船も、いずれは「がんす横丁」の西部編(続編)で書いてみたいと思う。

 この連載は、1953(昭和28)年1月から3月にかけて中国新聞夕刊に掲載したものです。旧漢字は新漢字とし、読みにくい箇所にルビを付けました。表現は原則として当時のままとしています。

(2018年12月9日中国新聞セレクト掲載)

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