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連載・特集

「がんす横丁」シリーズ がんす横丁 (六十三)あとがき(その2)㊥

文・薄田太郎 え・福井芳郎

 本川のお供船を書く前に、次のような話を聞いたのでお伝えしよう。

 中島本町からも御供船が本川に浮かべられたが、昭和十五、六年ごろであったか、その御供船の飾り道具一式は、あるアメリカ人に買いとられて海を渡って往(い)ったという。そして現在、アメリカのある博物館に、あの金繡(きんしゅう)、銀繍の飾り幕などが保存されているとのことである。筆者はヒロシマとこの博物館との不思議な因縁に、いまさらながらの感に打たれている。

 次に読者諸氏から寄せられた「がんす横丁」への投書や、直接筆者に昔の広島を語ってもらった人たちからの話を綴(つづ)ってみよう。

 連載第三十六回の「堀川町界隈(かいわい)」に出てくる中忠(熊谷忠一氏が営む油商中屋)の美人顔の大看板を描いたづぼら翁は、南方東州氏と分かった。

 第二十六回「旧東練兵場」の坂本寿一氏の飛行機のところで、ちょん髷(まげ)姿の老人を見たことを書いたが、その頃、京橋町に住んでいた漢方医の佐々木源兵衛氏も、最後までちょん髷を結った広島人であった。同氏の家には大時代の駕籠(かご)がつってあったとのことである。

 なお、第六十一回「大手町界隈」(その7)で触れた国泰寺の大樟であるが、大正元年、電車道が敷設されたとき、この大樟の根が道路に大きく盛り上っていたため、とくにこの根のところをよけて電車道にカーブをつけたとのことで、その根の上には高くブリッジ型のコンクリート道路ができた。福井芳郎画伯の挿絵にも、このあたりの描写が克明に現れている。

 福井氏の挿絵には、こうしたあたりの苦心がよくうかがえる。比治山公園で銅馬に乗った山路商君(連載第十四回)の絵にしても、五、六枚も書き直しをしている。西練兵場の招魂祭風景や、「柳橋界隈」や「大手町界隈」では、同氏独得の記憶をたどった、筆の冴(さ)えを見せてくれたのは感服のほかはない。言うならば「がんす横丁」の効果の半分以上は、福井氏の挿絵におんぶされているようなものである。

 この連載は、1953(昭和28)年1月から3月にかけて中国新聞夕刊に掲載したものです。旧漢字は新漢字とし、読みにくい箇所にルビを付けました。表現は原則として当時のままとしています。

(2018年12月16日中国新聞セレクト掲載)

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