×

連載・特集

「がんす横丁」シリーズ がんす横丁 (六十三)あとがき(その2)㊦

文・薄田太郎 え・福井芳郎

 次に昔ながらの小路は、東部に関する限り、一応とりまとめたつもりであるが、大手町七丁目には「落目小路」が抜けていたと、拙宅を訪ねて告げて呉(く)れた人もあった。

 そして、白神サン(白神社)の境内で辰巳巡査がピストル強盗に射たれたという話や、三味線堀は西塔橋の近くに店を出していた三味線屋に因(ちな)んでその名がつけられたという話をしてくれた人もあった。

 明治三十四年ごろというから、(元の連載当時から)五十年も前の話であるが、大手町三丁目にあった広島日報社が愛読者招待のマラソン競争を西練兵場で開催した。あの西練兵場を三十周する競争で、ある郵便配達人が一等賞をかち得たが、間もなく病気になって倒れたという話も聞かされた。

 「アンブリをコイタ」(水に溺れた)「カイカリが立った」(恐ろしさにぞっとした)「うんねのう」(否定の言葉)「エットエット食べた」(沢山(たくさん)食べた)「ヤネコイ」(むずかしい)などの広島方言も寄せてもらった。

 「びんた豆腐」「本川まんじゅう」「大石餅」「軍艦焼」「鯛(たい)やき」「今川焼」などの想(おも)い出話も欲しいという注文もあった。

 「広島大本営」も抜けているといわれた。西部の小路には「網打小路」「幽霊小路」「地獄小路」「つづらや小路」などの珍名も出てくるので、東部の「徳利小路」「ねづみ小路」「どんぐり小路」などと組合せると「広島小路番付」も出来そうである。

 また原爆でコナゴナになった「清丐(せいがい)太一の碑」(連載第三十八回)も、その石刷が高田郡高南村(現広島市安佐北区)の旭山住民の手許(てもと)にあるというはがきももらった。

 最後に「八丁堀界隈(かいわい)」(連載第四十七回)で登場した、奇人三村羅風の句といわれるものを、画家の浜崎左髪子から教えられたので、その三句を「あとがき」の結びにしたい。

 羅風の最後の句と思われるものに「南無阿みだ憚(はばか)りながらのたれ死」。饒津(にぎつ)の里を詠んだものに「なんの木やとにかく涼し夏木立」。西塔橋あたりをふう刺した意味しん重なものにて「葷酒(くんしゅ)山門に入るを許さず、裏からこっそり初ざくら」というのがある。

 ではいま一度、本稿について読者諸氏から寄せられた御好意に感謝して、ひとまず擱筆(かくひつ)する。(おわり)

 この連載は、1953(昭和28)年1月から3月にかけて中国新聞夕刊に掲載したものです。旧漢字は新漢字とし、読みにくい箇所にルビを付けました。表現は原則として当時のままとしています。

(2018年12月23日中国新聞セレクト掲載)

年別アーカイブ