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連載・特集

「がんす横丁」シリーズ 續がんす横丁 (一)はしがき㊤

文・薄田太郎 え・福井芳郎

 東部編を終わってから2カ月、いろいろと資料を集めたが、流石(さすが)に百メートル道路のあたりに来ると、なかなかに資料らしいものが集まらなかった。口碑というのか、そのあたりにすんでいた人たち、言うならば原爆生き残りの人から直接聞ける話が、西部編のハイライトになるのではないかと想(おも)う。

 たしかに東部と西部の違いはあるもので、御供船風景にも東部と西部の違いがはっきりしている。町の気風も西と東では違ったものがあるので、この点をウマク書き分ければ大したものであるが、筆者には残念ながらその自信がないので、予(あらかじ)め大方のお許しをお願いして置く。

 先(ま)ず「がんす横丁」に住んでいる人達を探し当てるということが、原稿を書く以上にムズカシイものと想えた。市内のあちこちを歩いているうちに思いがけない広島人に出会う。すると「がんす横丁」を読んでいるというので、その人たちの都合をうかがっては、いろいろとメモを採っているが、筆者の身体の不調の時には、どうにも渉(わた)らないので閉口している。それにつけても広島のあちこちを歩いてみて感じるのは、(元の連載当時から数えて)この三百余年の城下町もなかなかに広いということだ。

 最近は、これはと思われる寺院の墓地に足を踏み入れて、かつての友人、画家、歌人、粋人などを調べているが、思いがけないところで昔の知人や友人の墓にお目にかかっている。そしてそのほとんどが原爆に倒れた人だけに、生前のこの人たちのことが思い浮かんで、思わず声をかけてみたいような気になる。トタンにこの広島的な現実に打たれて、言いようのない感にも打たれる。筆者にはその友だちが無言のまま墓の中に眠っていることが、腹が立ってならないような気持ちにさせられる。

 街角ですれ違いざま、なん年も会わなかった知人から声をかけられるのも、原爆後の広島的な現実であるが、思いがけない寺院の墓地に飛び込んだ瞬間、かつての知人の名前を発見するということは、広島人や長崎人の宿命だとはいえ、どうにもあきらめ切れない。原爆への憎しみは年を増すごとに深まるのが当然である。

 この連載は、1953(昭和28)年7月から9月にかけて中国新聞夕刊に掲載した「続がんす横丁」(第1部)の復刻です。旧漢字は新漢字とし、読みにくい箇所にルビを付けました。表現は原則として当時のままとしています。

(2019年1月6日中国新聞セレクト掲載)

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