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連載・特集

「がんす横丁」シリーズ 續がんす横丁 (二)本通りの話(その1)㊦

文・薄田太郎 え・福井芳郎

 お葬(とむら)いの行列風景で、沢山(たくさん)の花が盛りあげられた花車の列の時には、金網の中に小鳥を入れた放鳥車などがユラリユラリと車輪をきしませている。

 近親者の列が大時代の裃(かみしも)姿で続いたり、葬列の一部には白かつぎ姿の女性群が見られたのも、明治末期から大正初期にかけての本通り風景で、このゆらぐような葬列は、本通りから中島本町を過ぎ、本川橋を渡って堺町通りへとつづいたものである。

 この行列は専ら東から西へとつづいたものであるが、西から東への行列には、人力車をつらねた寿座や新地座への乗込み役者の町まわり風景もあって、本通りならではの、みものであった。

 また、鈴蘭(すずらん)灯のなかった本通りを、白むく姿の花嫁を乗せた人力車を中心に、一連の人力車の列がつづいた詩情も、思えばあのころのなつかしい思い出である。行列の先頭にあった丸提(ちょう)ちんのあかりが、ハタと本通りの大戸を落した商家の前に止まったあたりは、活人画を見るような印象であった。

 嫁入り道具のかずかずが、大紋を染め抜いたあさぎ色の覆に包まれて気勢よく運ばれたのも、この本通りだけに見られた格別な風景であった。言うならば、この本通りこそは、広島人の人生の花道でもあったわけである。

 本通りといえば、あの鈴蘭灯やアスファルト道路がいつごろに出来上ったということを書かなくてはならないと思う。ところが残念ながら、この本通りの二つの要素についてはなんの記録も見当たらない。

 古い本通りの人に尋ねても的確な答が出てこないので、以下は筆者の記憶をたどって、この二つの問題のあらましをつづってみよう。

 この連載は、1953(昭和28)年7月から9月にかけて中国新聞夕刊に掲載した「続がんす横丁」(第1部)の復刻です。旧漢字は新漢字とし、読みにくい箇所にルビを付けました。表現は原則として当時のままとしています。

(2019年1月27日中国新聞セレクト掲載)

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