×

連載・特集

「がんす横丁」シリーズ 續がんす横丁 (三)本通りの話(その2)㊤

文・薄田太郎 え・福井芳郎

 本通りは東から西へ平田屋町、播磨屋町、革屋町、横町(東横町と西横町とに分かれていた)、細工町の順で、元安橋までを呼称したもので、本通り一丁目から五丁目まではそれぞれ昔の町名を当てはめた。

 本通会という名が生れたのは大正の初期で、革屋町の桐山メリヤス店(店の看板の上中央に、松の枝に鷲(わし)がとまったような印があったのが思い出される)、播磨屋町の川口食料品店、田辺、近森帽子店などの主人たちがこの会の創立者と言われている。

 会の集りは創立当時、年に二、三回くらいであったが、年と共に真摯(しんし)な会合が重ねられた。昭和初期から中期にかけて、本通りの大売出しにはいろいろな手を打って立派なデコレーションが取りつけられていた。

 その頃の本通会の売出しの飾りつけは、もっぱら左官町の看板店白馬堂の中原和夫君がやったものである(中原和夫君は素人劇団十一人座創立以来のメンバーで、原爆の日、横川橋の近くで倒れたという)。

 そのかみの本通りのデコレーションと言えば、大正三年十一月、大正天皇の即位式に通りの両側に紅白の幕が飾られ、金泥で書かれた「万歳」幟(のぼり)が、店の軒並みに立てられた豪華な飾りつけを思い出す。

 本通会の売出しは、胡子町の胡子まつりの誓文払いにも呼応していろいろな飾りつけをしたが、年一度の歳(とし)の市には、本通会は大ハリ切りだった。平田屋町から元安橋まで、道の上に赤、青の裸電球を結びつけたイルミネーションが人気を呼んだもので、この電飾は大正七年から九年の三年間に繰り返された。

 この赤、青の電球装飾は、大正元年十二月八日、広島へ初めて花電車がお目見えして以来のものである。翌二年の夏、広島電鉄が御幸橋の埋立地に納涼場を設けて、市内の客を集めたときには、場内一面に電線を張りめぐらせてイルミネーションをみせたものである。有名な明道中学がそのごろ廃校になって、この界隈(かいわい)は埋立てられていた。

 毎夜の呼び物は、京橋川の中央に浮いた舟から打上げられた花火であった。空高く炸裂(さくれつ)する花火の美しさもさることながら、鋭い音をした小花火が水中に入ったトタン、金魚が泳いでいるような演出はなかなか人気があった。

 この納涼大会で見かけたイルミネーションはその後、大正六、七年の正月、八丁堀に現れたサーカス有田洋行が客寄せに採用した。すなわち、有田洋行はキャンプの前に高さ五十メートルの櫓(やぐら)を建てて、毎朝広島の空に櫓太鼓の響を聞かせた。同時にこの櫓の頂上に赤、青のイルミネーションを取りつけて、広島人の哀愁をかきたてたものである。

 この連載は、1953(昭和28)年7月から9月にかけて中国新聞夕刊に掲載した「続がんす横丁」(第1部)の復刻です。旧漢字は新漢字とし、読みにくい箇所にルビを付けました。表現は原則として当時のままとしています。

(2019年2月3日中国新聞セレクト掲載)

年別アーカイブ