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連載・特集

「がんす横丁」シリーズ 續がんす横丁 (三)本通りの話(その2)㊥

文・薄田太郎 え・福井芳郎

 今は金座街の一角になっているあたりに四、五本の大きな柳が一列に植えられていた。この辺りは八丁堀の外濠(そとぼり)が埋められたところで、サーカス有田洋行は明治四十五年来、この八丁堀界隈(かいわい)に毎年、正月にキャンプを張って広島人になじまれた。

 話をもとに返して本通会の鈴蘭(すずらん)灯は、御幸橋埋立地の納涼大会や、有田洋行の櫓(やぐら)のイルミネーションの過程を経て、大正七年から三年間、年の市の飾りに本通り五つの町にわたって出現した。クモの網のようにとは大ゲサであるが、電線の網を張りめぐらせて、赤、青の電球を結びつけたお花畑のようなイルミネーションであった。

 かくて、大正十年の五、六月ごろ、東横町の岡寛氏(後に寿美多屋大島氏の袴(はかま)屋となった)と革屋町のメリヤス商桐山氏の肝いりで、本通りに鈴蘭灯を建てる計画をすすめたと言う。

 もっとも前年に、京都の盛り場、新京極に鈴蘭灯が建てられて、大阪、神戸方面の各商店街がこの街道電飾灯を設備して、九州福岡の川端町にも、この鈴蘭灯が進出するというニュースもあった。早速、本通会でも町の繁栄にとこの電飾灯を立てようと上述の両氏が中心になり、その年の夏に文字通り鈴蘭の花のような可憐(かれん)な電飾灯を本通りにデビューさせた。

 この電灯は初め、元安橋の東側から横町に設けられ、間もなく革屋町から平田屋町まで設けられて広島人を喜ばせ、夏の夜の散歩に「本ブラ人」をあっと言わせた電飾灯であった。間もなく元安橋を渡って中島本町一円をも明るく照らしたもので、この大正十年という年は、広島人に思いがけない鈴蘭灯というモニュメントを打ち立てたものである。

 本通りが明るくなったのを機会に道路も舗装された。大正七、八年ごろ、広島県土木課ではまず水主町の広島県庁前と日本銀行広島支店前の道路で、試験的な道路舗装を行ったという話もある。もちろんアスファルトの舗装ではなく、コンクリートを流し込んだ道路であった。

 一説には鈴蘭灯の出来た中島本町の元安橋西詰が木製煉瓦(れんが)で舗装されたという話もあり、さらに本通りの道路がコンクリートで舗装されたのは同じ大正十年の秋のことである。

 もっともこの年の九月、新天地が誕生して、開場間もない道路はコンクリートで舗装された。カフェー帰りの彼女たちが夜更けにこの盛り場を歩くと、足駄の音がカタカタと響いてきたものである。

 この連載は、1953(昭和28)年7月から9月にかけて中国新聞夕刊に掲載した「続がんす横丁」(第1部)の復刻です。旧漢字は新漢字とし、読みにくい箇所にルビを付けました。表現は原則として当時のままとしています。

(2019年2月10日中国新聞セレクト掲載)

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