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連載・特集

「がんす横丁」シリーズ 續がんす横丁 (三)本通りの話(その2)㊦

文・薄田太郎 え・福井芳郎

 広島のものの本によると、「西部の十日市町と相まって東部の胡子町は広島市の古着屋町である。しかしそれも昼間だけの商売で、夜間はいずれも堅く表戸を閉ざし、街灯の出ている家は一軒もないというような、真っ暗な人通りもロクにない極めて寂しい町でもあった。それが時勢の移り変りで、どこの店にも飾窓を設けて夜分は電灯が晃々(こうこう)と点ぜられてアスファルトの歩道ができて、この秋(注・昭和二年)からは街頭照明電飾塔ができるという。文化的の商店街になったことは、ただに田舎から出てきた人ばかりが驚くのでなく、土着の広島人もその進化に驚いている」と書いてある。

 この一文によると、胡町の電飾塔は本通りよりはるか遅れて昭和二年の秋に設けられたもので、すでにアスファルトの舗装は胡町に関する限り舗装済みという答が出てくる訳だ。本通りのアスファルト道路については、これといった記録は残っていないが、明治四十二年、尾道町に当時横浜市に創設されたアスファルト株式会社の広島支店が設けられ、工場を舟入町に建てて製造を始めたと言われる。

 大正十年の調べによると、年額六万七千円の生産を記録している。この記録によると、広島の本通りの道路舗装は大正十年ごろからはじめられ、昭和二年には胡町一円が、完全にアスファルト道路になっているようである。

 なお、本通りの最初の鈴蘭(すずらん)灯は昭和三年十一月の御大典(即位の礼)を記念して、立派な電飾灯に改装された。すなわち、町の区切りにはアーチ型の大電飾灯(高さ二丈=約6メートル、幅四間=約7・3メートル)が建てられた。

 初代の可れんな鈴蘭灯は、鉄製の立派な電飾灯に改装されたが、その当時の写真を見ると、一本の電飾灯には五つの丸い電灯がつけられ、その先頭には同じ丸い大電灯が宙ヅリにされていた。鉄塔の上には月桂(げっけい)樹の葉が並び、その下には鈴蘭の花が並んだデザインが施こされて初代の鈴蘭灯をしのんでいる。

 そしてこの電飾灯のボディの中央部には、小旗をはめる装置や、その下には提灯(ちょうちん)をつるような仕掛けもしてあった。この新型の立派な電飾灯は十数年間、広島の本通りを照らしつづけて、広島人には数ある思い出を残したが、太平洋戦争の始まった昭和十六年、金属回収で赤ダスキをかけられて献納された。月桂樹の葉で飾られたこの電飾灯だけに、今もって後味の悪い思いが残っている。

 この連載は、1953(昭和28)年7月から9月にかけて中国新聞夕刊に掲載した「続がんす横丁」(第1部)の復刻です。旧漢字は新漢字とし、読みにくい箇所にルビを付けました。表現は原則として当時のままとしています。

(2019年2月17日中国新聞セレクト掲載)

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