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連載・特集

「がんす横丁」シリーズ 續がんす横丁 (四)平田屋町(その1)㊤

文・薄田太郎 え・福井芳郎

 平田屋町の町名は、平田屋惣右衛門に因(ちな)んで名付けられたものである。彼は毛利輝元の広島築城のみぎり、二宮太郎右衛門とともに城下町一円の建設に力を尽した広島の恩人であった。

 築城の資材を運ばんがために、西塔川と平田屋川のクリークを掘ったのも彼である。もともと彼は雲州尼子氏に仕えて平田屋新田を開いたという、土木工事や財政面での才に長じた男で、吉田城にいた輝元は、彼を迎えて広島開府に当らせた。天正十八(1590)年ごろのことである。

 彼は広島開府の功労が報いられて町人頭の役に任ぜられた。これが後の町大年寄役のはじまりで、城下の施政に参加したことなど、言うならば現今の市長の役に当るワケである。その後、現在の平田屋町と旧鉄砲町入口の土地を貰(もら)って永住し、三百余年後の今日(当初の新聞連載時)まで、その町名が伝えられたワケである。

 商店街に筆を進めるのに先立ち、これまでも引用した「広島案内記」(「広島諸商仕入買物案内記並(ならび)に名所志(し)ら遍(べ)」)のことに触れるが、最近この本の著作者渡辺萊之助のことが判(わか)ったので、平田屋町の項でそのあらましを綴(つづ)って置こう。

 この「広島案内記」は縦二寸(6センチ)、幅四寸五分(13・5センチ)ほど、黄表紙和とじの分厚い本で、慶応4(1868)年、京都の村上勘兵衛、井上治兵衛が発刊した「列藩一覧」と同型の本である。

 筆者もこの明治十六年十月に発刊された「広島案内記」を持っていたが、火事で焼いてしまった。その後、三原市の某氏が本書を持っていること、また、「案内記」の筆者に関係ある某氏が現在広島に住んでいて、本書を一冊保存されていることを聞き、訪ねて見せて貰った。まさに本書は曽(かつ)ての「広島」を語る唯一の資料であると思う。

 著者渡辺萊之助は大阪府在住とあるが、実は安政三(1856)年、胡町生れの広島人であることが判った。萊之助の萊の字は、宮島の聖崎に現れた蜃気楼(しんきろう)、すなわち蓬萊山に因んだという。

 この渡辺萊之助は、十六歳で大阪の製本屋に奉公して、奥付にある「画工広島区京橋町正木安兵衛」とともに「案内記」を発刊したもので、大正九年に材木町で亡くなり、墓は堀川町般舟寺にあることも判明した。

 この連載は、1953(昭和28)年7月から9月にかけて中国新聞夕刊に掲載した「続がんす横丁」(第1部)の復刻です。旧漢字は新漢字とし、読みにくい箇所にルビを付けました。表現は原則として当時のままとしています。

(2019年2月24日中国新聞セレクト掲載)

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