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連載・特集

「がんす横丁」シリーズ 續がんす横丁 (五)平田屋町(その2)㊤

文・薄田太郎 え・福井芳郎

 毛利氏時代の平田屋町には、これと言った商家の記録が残っていない。町人頭平田屋惣右衛門は、輝元が山口に移ってからは引退して郷里出雲に還ったが、間もなく新城主福島正則に迎えられて町大年寄の役を命じられて、広島のために市政の役を果たしたという。

 惣右衛門は引退と同時に、髪を落して平田屋宗加となり、更に福島氏に代って元和五(1619)年七月浅野長晟(ながあきら)が広島入城後も、町大年寄の役を仰せつけられ、毛利、福島、浅野、三代にわたって市政に関与した彼も元和七年平田屋町で病没した。

 惣右衛門が平田屋川を掘って以来、三百六十三年間にわたったこの川も埋められて、永年広島人に馴染まれた彼の名前も忘れられようとしているが、本通りのある限り平田屋町の名前は、永久に残されることであろう。彼の旧宅の跡に、彼の名前が刻まれた記念碑でも出来上れば、そのかみの広島の恩人を偲(しの)ぶよすがにもなるであろうと思う。

 以下、平田屋町のメモを綴(つづ)ると慶長十一(1606)年二月、福島時代に同町に創業した筆屋初代藤左衛門がある。彼の筆業は繁昌(はんじょう)して、京都の仁和寺官に献上して天下一若狭守という称号を貰(もら)った。後に寛永六(1629)年白神二丁目の筆師籠屋七郎右衛門も同じ仁和町に製作の筆を献上して天下一肥後守の称号を貰ったという。

 この平田屋町筆屋の筆師藤左衛門の技術が三百年の伝統を経て今日の安芸郡熊野町に移し植えられ、毛筆の生産地熊野町としてクローズ・アップされているが、筆の誕生地は平田屋町であるワケである。

 大昔のことはさておいて、明治時代になると、この町に広島最初の郵便役所(郵便局)が設けられたことである。流石(さすが)に国道筋でも平田屋町は中心地帯なので、この郵便役所が置かれた。明治四年十二月四日以来の出来ごとではじめに平田屋町の北側に置かれたが、後に同じ本通り細工町元安橋東詰の南側に移り、更に平田屋町の南側に移り、明治二十六年四月、遂(つい)に細工町に移動している。

 次に明治十六年に発刊された「広島案内記」には十五軒の商家が名を列(つら)ねていると書いたが、ハッキリしている店では菓子砂糖店の堀田富士氏である。同氏の店先には「六つ萩」という銘菓のほかに氷芋やかすていら、紅白ねり羊羹(ようかん)が並べられてあったという。そして当時西洋雑貨と言われた洋傘、中折帽子、椅子、靴、ランプを商う店が同所に四、五軒も並んでいたという。

 この連載は、1953(昭和28)年7月から9月にかけて中国新聞夕刊に掲載した「続がんす横丁」(第1部)の復刻です。旧漢字は新漢字とし、読みにくい箇所にルビを付けました。表現は原則として当時のままとしています。

(2019年3月10日中国新聞セレクト掲載)

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