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連載・特集

「がんす横丁」シリーズ 續がんす横丁 (五)平田屋町(その2)㊦

文・薄田太郎 え・福井芳郎

 本通り筋の空間を純白の洋傘を大中小とくくり合わせて店のシンボルにしていたのも明治末期まで続いた平田屋町風景である。明治三十四年の広島商店街地図には、平田屋町五十九番地山口辰造氏の内外雑貨和洋酒西洋食料を扱っている店だけが記録されている。

 明治三十一年三月平田屋町の交番所が出来た。交番所自体が、平田屋川の上に建てられたもので、交番所の前の南側には広島県報をはり出した金網づくりの告示板があった。この告示板を見るには、平田屋橋のランカンに足をかけたもので毛利氏時代は長さ二間、幅二十一尺の木橋であった。後に石橋に造り替えられたもので、埋立のときには二メートル以下の地中に、昔の石橋の姿が見られた。金座街から中の棚に入る中の棚橋と共に今は姿を消した思い出の橋であった。

 なおこの町内で忘れてならないのは、広島の特産蚊帳が慶応年間に平田屋町の古着商仁保屋佐太郎氏の手で造られている。彼は高田郡や安佐郡方面を行商中、農家の副業として蚊帳の素地を織っているのに目をつけ、これを広島で仕立てた。たまたま明治四年の春、豊後の蚊帳行商人の篠田某が宮島へ参けいの途中、広島でこの蚊帳を注文したのがはじまりで、間もなく広島蚊帳は県外に進出したという話である。

 また、昭和十一年広島税務署の収益調査によると広島の十三商店街の長者番付に、榎町の二十五万八千三百円を筆頭に、平田屋町は第二位で十九万九千四百円の数字を示している。長者番付のベスト・シックスには平田屋町に次いで胡町、金座街、八丁堀、播磨屋町が名を連ねていて、さすがに青物問屋が軒を並べている榎町筋が商店街のナンバーワンで、平田屋町も大関的貫禄を見せている、

 また個人別収入の換算によると榎町の七千七百円が筆頭で、第二位は平田屋町の六千五百円、以下大手町二丁目、革屋町、幡磨屋町、金座街の順で、さすがに本通り会の各町は当時の広島経済界に立派な地位を示していた。

 この連載は、1953(昭和28)年7月から9月にかけて中国新聞夕刊に掲載した「続がんす横丁」(第1部)の復刻です。旧漢字は新漢字とし、読みにくい箇所にルビを付けました。表現は原則として当時のままとしています。

(2019年3月17日中国新聞セレクト掲載)

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