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連載・特集

「がんす横丁」シリーズ 續がんす横丁 (六)平田屋町(その3)㊤

文・薄田太郎 え・福井芳郎

 平田屋町の入口は、昭和初期まで北側東から虎屋、田中メガネ店、久野瀬履物店、平田屋川にかけられた巡査派出所、隣りは永井紙店で左の小路は、石畳の中の棚であった。

 また大正末期まで南側にあった湯浅菓子店、玉田時計店、筒井金物度量衡店、玉井履物店の順で、ここから鉄砲屋町の入口で、湯浅菓子店の小型の銭型せんべいは人気を集めたもので、後に鉄砲屋町に入ってゼリー菓子を製造して有名になった。

 この界隈(かいわい)には、永井旅館その他三階建の旅館が密集していた。明治四十五年頃であったが、台湾の人が広島見物に現われて、鉄砲屋町の小路を通って平田屋町の本通りを素足で赤いサロンをまとって歩き、広島人を驚かせた。

 大正十年九月、中忠商店の名物美人画の看板が取除かれ、母屋を真二つにして出来たのが新天地の西人口である。三百年来の旧家が真二つにされて、新天地の路を開いたことは当時の広島中の話題となった。

 新天地は大正八年に新天地土地株式会社が創立したもので、同町にいた紙屋永井林太郎氏や堀川町の弁護士高野一歩氏たちの肝入りで、広島としては画期的な盛り場を現出したワケで、その流れの先頭を承ったのが平田屋町である。

 大正初期の同町の北側には、芝居小屋のマスのようなものが店に並べてあった昆布屋があったように思う。大きな昆布を一枚マスの中に並べる白鉢巻姿の職人が、この昆布をしごいて、とろろ昆布を造っていた。この昆布屋風景は、本通り最後に見かけた大時代な風景であった。

 この昆布屋の隣りにY氏が広島最初と思われるようなカメラや写真資料店を出したのもこの頃で、明るいショウ・ウインドーの照明に輝いたカメラが不思議に思えてならない。隣家の昆布屋が芝居の楽屋をひっくり返したような店を見せていたのもおもしろい対照を見せていた。

 この連載は、1953(昭和28)年7月から9月にかけて中国新聞夕刊に掲載した「続がんす横丁」(第1部)の復刻です。旧漢字は新漢字とし、読みにくい箇所にルビを付けました。表現は原則として当時のままとしています。

(2019年3月24日中国新聞セレクト掲載)

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